あは》を生《しやう》じた肌《はだへ》のやうに只《たゞ》こそばゆく見《み》えた。西風《にしかぜ》は川《かは》に吹《ふ》き落《お》ちる時《とき》西岸《せいがん》の篠《しの》をざわ/\と撼《ゆる》がす。更《さら》に東岸《とうがん》の土手《どて》を傳《つた》うて吹《ふ》き上《あ》げる時《とき》、土手《どて》の短《みじか》い枯芝《かれしば》の葉《は》を一葉《ひとは》づゝ烈《はげ》しく靡《なび》けた。其《そ》の枯芝《かれしば》の間《あひだ》にどうしたものか氣《き》まぐれな蒲公英《たんぽ》の黄色《きいろ》な頭《あたま》がぽつ/\と見《み》える。どうかすると土手《どて》は靜《しづ》かで暖《あたゝ》かなことがあるので、遂《つひ》騙《だま》されて蒲公英《たんぽ》がまだ遠《とほ》い春《はる》を遲緩《もどか》しげに首《くび》を出《だ》して見《み》ては、また寒《さむ》く成《な》つたのに驚《おどろ》いて蹙《ちゞ》まつたやうな姿《すがた》である。
勘次《かんじ》は唐鍬《たうぐは》を持《も》つて復《ま》た自分《じぶん》の活力《くわつりよく》を恢復《くわいふく》し得《え》たやうに、それから又《また》一|日《にち》仕事《しごと》を怠《おこた》れば身内《みうち》がみり/\して何《なん》だか知《し》らぬが其《そ》の仕事《しごと》に催促《さいそく》されて成《な》らぬやうな心持《こゝろもち》がした。
鬼怒川《きぬがは》の水《みづ》は落《お》ちて此方《こちら》の土手《どて》から連《つらな》つて居《ゐ》る大《おほ》きな洲《す》が其《そ》の流《なが》れを西岸《せいがん》の篠《しの》の下《した》まで蹙《ちゞ》めて居《ゐ》る。廣《ひろ》く且《かつ》遠《とほ》い洲《す》には只《たゞ》西風《にしかぜ》が僅《わづか》に乾《かわ》いた砂《すな》をさら/\と掃《は》くやうにして吹《ふ》いて居《ゐ》る。それで白《しろ》く乾燥《かんさう》した洲《す》は只《たゞ》からりと清潔《せいけつ》に見《み》える。さういふ間《あひだ》にどうしたものか此《こ》れも氣《き》まぐれな人《ひと》が、遠《とほ》くは其《そ》の砂《すな》から生《は》えたやうに見《み》えてちらほらと散《ち》らばつて少《すこ》しづゝ動《うご》いて居《ゐ》る。勘次《かんじ》は土手《どて》からおりて見《み》た。動《うご》いて居《ゐ》る人々《ひと/″\》は萬能《まんのう》で其《そ》の砂《すな》を掘《ほ》つて居《ゐ》るのであつた。西風《にしかぜ》が乾《かわ》かしてはさらさらと掃《は》いて居《ゐ》ても洲《す》には猶《なほ》幾《いく》らか波《なみ》の趾《あと》がついて居《ゐ》る。其《その》砂《すな》の中《なか》からは短《みじか》い木片《もくへん》が出《で》る。二三|寸《すん》から五六|寸《すん》位《ぐらゐ》な稀《まれ》には一|尺《しやく》位《ぐらゐ》なものも掘《ほ》り起《おこ》される。皆《みな》研《と》ぎ減《へら》したやうな木片《もくへん》のみである。人々《ひと/″\》は冷《つめ》たく成《な》つた手《て》を口《くち》へ當《あ》てゝ白《しろ》い暖《あたゝ》かい息《いき》を吹《ふ》つ掛《か》けながら一|心《しん》に先《さき》へ先《さき》へと掘《ほ》り起《おこ》しつゝ行《ゆ》く。
「どうするんだね」勘次《かんじ》は一人《ひとり》の側《そば》へ立《た》つて聞《き》いた。ひよつと首《くび》を擡《もた》げたのは婆《ばあ》さんであつた。婆《ばあ》さんは腰《こし》をのして強《つよ》い西風《にしかぜ》によろける足《あし》を踏《ふみ》しめて
「此《こ》れ干《ほ》して置《お》いて燃《も》すのさ」と穢《きたな》い白髮《しらが》と手拭《てぬぐひ》とを吹《ふ》かれながら目《め》を蹙《しか》めていつた。
「どうしても斯《か》う成《な》つちやべろ/\燃《も》えて飽氣《あつけ》なかんべえね」勘次《かんじ》は聞《き》いた。
「赤《あけ》え灰《はひ》に成《な》つてな、火《ひ》も弱《よ》えのさ、そんでも麁朶《そだ》買《か》あよりやえゝかんな、松麁朶《まつそだ》だちつたつてこつちの方《はう》へ來《き》ちや生《なま》で卅五|把《は》だの何《なん》だのつて、ちつちえ癖《くせ》にな、俺《お》らやうな婆《ばゝあ》でも十|把《ぱ》位《ぐれえ》は背負《しよ》へんだもの、近頃《ちかごろ》ぢや燃《もう》す物《もの》が一|番《ばん》不自由《ふじよう》で仕《し》やうねえのさな」婆《ばあ》さんはいつた。
「松麁朶《まつそだ》で卅五|把《は》ぢや相場《さうば》はさうでもねえが、商人《あきんど》がまるき直《なほ》すんだから小《ちひ》さくもなる筈《はず》だな」勘次《かんじ》は首《くび》を傾《かたむ》けていつた。
「さうだごつさらよなあ、そりやさうとおめえさん何處《どこ》だね」萬能《まんのう》を杖《つゑ》にして婆《ばあ》さんはいつた。
「俺《お》ら川向《かはむかう》さ」
「そんぢや燃《もう》す木《き》は有《あ》つ處《とこ》だね」婆《ばあ》さんは更《さら》に勘次《かんじ》の唐鍬《たうぐは》を見《み》て
「たいした唐鍬《たうぐは》だが餘《よ》つ程《ぽど》すんだつぺな」
「さうさ今《いま》打《ぶ》たせちや三十掛《さんじふがけ》は屹度《きつと》だな」
「三十掛《さんじふがけ》ツちや幾《いく》らするごつさら、目方《めかた》もしつかり掛《かゝ》んべな」
「一貫目《いつくわんめ》もねえがな」勘次《かんじ》は自慢《じまん》らしく婆《ばあ》さんへ唐鍬《たうぐは》を持《も》たせた。
「おういや、俺《お》らがにや引《ひ》つたゝねえやうだ、おめえさん自分《じぶん》で使《つか》あのけまあ、何《なに》したごつさらよ此《こ》んな道具《だうぐ》なあ」
「毎日《まいんち》木根《きね》つ子《こ》起《おこ》してたんだが、唐鍬《たうぐは》のひつ痛《いため》つちやつたから直《なほ》し來《き》た處《とこ》さ」
「そんぢやおめえさん燃《もう》す物《もの》にや不自由《ふじいう》なしでえゝな」婆《ばあ》さんは羨《うらや》まし相《さう》にいつた。さうして小《ちひ》さな木片《もくへん》を入《いれ》る爲《ため》に持《もつ》て來《き》た麻《あさ》の穢《きたな》い袋《ふくろ》を草刈籠《くさかりかご》から出《だ》した。
僅《わづか》に鬼怒川《きぬがは》の水《みづ》を隔《へだ》てゝ西《にし》は林《はやし》が連《つらな》つて居《ゐ》る。村落《むら》も田《た》も畑《はたけ》も其《そ》の林《はやし》に包《つゝ》まれて居《ゐ》る。東《ひがし》は只《たゞ》低《ひく》い水田《すゐでん》と畑《はたけ》とで村落《むら》が其《そ》の間《あひだ》に點在《てんざい》して居《ゐ》る。其處《そこ》に家《いへ》を圍《かこ》んで僅《わづ》かな木立《こだち》が有《あ》るばかりである。隨《したが》つて薪《たきゞ》の缺乏《けつばふ》から豆幹《まめがら》や藁《わら》のやうなものも皆《みな》燃料《ねんれう》として保存《ほぞん》されて居《ゐ》ることは勘次《かんじ》も能《よ》く知《し》つて居《ゐ》た。然《しか》し其《そ》の薪《たきゞ》の缺乏《けつばふ》から自然《しぜん》にかういふ砂《すな》の中《なか》に洪水《こうずゐ》が齎《もたら》した木片《もくへん》の埋《うづ》まつて居《ゐ》るのを知《し》つて之《これ》を求《もと》めて居《ゐ》るのだといふことは彼《かれ》は始《はじ》めて見《み》て始《はじ》めて知《し》つた。彼《かれ》は滅多《めつた》に川《かは》を越《こ》えて出《で》ることはなかつたのである。
勘次《かんじ》は自分《じぶん》の壁際《かべぎは》には薪《たきゞ》が一|杯《ぱい》に積《つ》まれてある。其《その》上《うへ》に開墾《かいこん》の仕事《しごと》に携《たづさ》はつて何《なん》といつても薪《たきゞ》は段々《だんだん》殖《ふ》えて行《ゆ》くばかりである。更《さら》に其《そ》の開墾《かいこん》に第《だい》一の要件《えうけん》である道具《だうぐ》が今《いま》は完全《くわんぜん》して自分《じぶん》の手《て》に提《さ》げられてある。彼《かれ》は恁《か》ういふ辛苦《しんく》をしてまでも些少《させう》な木片《もくへん》を求《もと》めて居《ゐ》る人々《ひとびと》の前《まへ》に矜《ほこり》を感《かん》じた。彼《かれ》は自分《じぶん》の境遇《きやうぐう》が什※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《どんな》であるかは思《おも》はなかつた。又《また》恁《か》ういふ人々《ひとびと》の憐《あは》れなことも想《おも》ひやる暇《いとま》がなかつた。さうして彼《かれ》は自分《じぶん》の技倆《うで》が愉快《ゆくわい》になつた。彼《かれ》は再《ふたゝ》び土手《どて》から見《み》おろした。萬能《まんのう》を持《も》つて居《ゐ》るのは皆《みな》女《をんな》で十三四の子《こ》も交《まじ》つて居《ゐ》るのであつた。人々《ひと/″\》の掘《ほ》り起《おこ》した趾《あと》は畑《はたけ》の土《つち》を蚯蚓《みゝず》が擡《もた》げたやうな形《かたち》に、濕《しめ》つた砂《すな》のうね/\と連《つらな》つて居《ゐ》るのが彼《かれ》の目《め》に映《うつ》つた。
彼《かれ》は家《うち》に歸《かへ》ると共《とも》に唐鍬《たうぐは》の柄《え》を付《つけ》た。鉈《なた》の刀背《みね》で鐵《てつ》の楔《くさび》を打《う》ち込《こ》んでさうして柄《え》を執《と》つて動《うご》かして見《み》た。次《つぎ》の朝《あさ》からもう勘次《かんじ》の姿《すがた》は林《はやし》に見出《みいだ》された。
主人《しゆじん》から與《あた》へられた穀物《こくもつ》は彼《かれ》の一|家《か》を暖《あたゝ》めた。彼《かれ》は近來《きんらい》にない心《こころ》の餘裕《よゆう》を感《かん》じた。然《しか》しさういふ僅《わづか》な彼《かれ》に幸《さいは》ひした事柄《ことがら》でも幾《いく》らか他人《たにん》の嫉妬《しつと》を招《まね》いた。他《た》の百姓《ひやくしやう》にも悶躁《もが》いて居《ゐ》る者《もの》は幾《いく》らもある。さういふ伴侶《なかま》の間《あひだ》には僅《わづか》に五|圓《ゑん》の金錢《かね》でもそれは懷《ふところ》に入《はひ》つたとなれば直《すぐ》に世間《せけん》の目《め》に立《た》つ。彼等《かれら》は幾《いく》らづゝでも自分《じぶん》の爲《ため》になることを見出《みいだ》さうといふことの外《ほか》に、目《め》を峙《そばた》てゝ周圍《しうゐ》に注意《ちうい》して居《ゐ》るのである。彼等《かれら》は他人《ひと》が自分《じぶん》と同等《どうとう》以下《いか》に苦《くるし》んで居《ゐ》ると思《おも》つて居《ゐ》る間《あひだ》は相互《さうご》に苦《くるし》んで居《ゐ》ることに一|種《しゆ》の安心《あんしん》を感《かん》ずるのである。然《しか》し其《そ》の一人《ひとり》でも懷《ふところ》のいゝのが目《め》につけば自分《じぶん》は後《あと》へ捨《す》てられたやうな酷《ひど》く切《せつ》ないやうな妙《めう》な心持《こゝろもち》になつて、そこに嫉妬《しつと》の念《ねん》が起《おこ》るのである。それだから彼等《かれら》は他《た》の蹉跌《つまづき》を見《み》ると其《その》僻《ひが》んだ心《こゝろ》の中《うち》に竊《ひそか》に痛快《つうくわい》を感《かん》ぜざるを得《え》ないのである。
勘次《かんじ》の家《いへ》には薪《たきゞ》が山《やま》のやうに積《つ》まれてある。それが彼等《かれら》の伴侶《なかま》の注目《ちうもく》を惹《ひ》いた。それとはなしに數次《しばしば》彼《かれ》の主人《しゆじん》に告《つ》げられた。開墾地《かいこんち》で木《き》を焚《た》いた其《その》灰《はひ》をも家《いへ》に運《はこ》んだといふことまで主人《しゆじん》の耳《みゝ》に入《はひ》つた。勘次《かんじ》は開墾《かいこん》の手間賃《てまちん》を比較的《ひかくてき》餘計《よけい》に與《あた》へられる代《かは》りには櫟《くぬぎ》の根《ね》は一つも運《はこ》ばない筈《はず》であつた。彼等《かれ
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