ぐにはおつぎの姿《すがた》も見《み》えなかつたのである。戸口《とぐち》からではおつぎの身體《からだ》は竈《かまど》の火《ひ》を掩《おほ》うて居《ゐ》た。返辭《へんじ》すると共《とも》に身體《からだ》を捩《ねぢ》つたので其《その》赤《あか》い火《ひ》が見《み》えたのである。
 おつぎの脊《せ》に居《ゐ》た與吉《よきち》はお品《しな》の聲《こゑ》を聞《き》きつけると
「まん/\ま」と兩手《りやうて》を出《だ》して下《お》りようとする。お品《しな》はおつぎが帶《おび》を解《と》いてる間《あひだ》に壁際《かべぎは》の麥藁俵《むぎわらだはら》の側《そば》へ蒟蒻《こんにやく》の手桶《てをけ》を二つ並《なら》べた。與吉《よきち》はお袋《ふくろ》の懷《ふところ》に抱《だ》かれて碌《ろく》に出《で》もしない乳房《ちぶさ》を探《さぐ》つた。お品《しな》は竈《かまど》の前《まへ》へ腰《こし》を掛《か》けた。白《しろ》い鷄《にはとり》は掛梯子《かけばしご》の代《かはり》に掛《か》けてある荒繩《あらなは》でぐる/\捲《まき》にした竹《たけ》の幹《みき》へ各自《てんで》に爪《つめ》を引《ひ》つ掛《か》けて兩方《りやうはう》の羽《はね》を擴《ひろ》げて身體《からだ》の平均《へいきん》を保《たも》ちながら慌《あわ》てたやうに塒《とや》へあがつた。さうして青《あを》い煙《けむり》の中《なか》に凝然《ぢつ》として目《め》を閉《と》ぢて居《ゐ》る。
 お品《しな》は家《いへ》に歸《かへ》つて幾《いく》らか暖《あたゝ》まつたがそれでも一|日《にち》冷《ひ》えた所爲《せい》かぞく/\するのが止《や》まなかつた。さうして後《のち》に近所《きんじよ》で風呂《ふろ》を貰《もら》つてゆつくり暖《あつた》まつたら心持《こゝろもち》も癒《なほ》るだらうと思《おも》つた。竈《かまど》には小《ちひ》さな鍋《なべ》が懸《かゝ》つて居《ゐ》る。汁《しる》は葢《ふた》を漂《たゞよ》はすやうにしてぐら/\と煮立《にた》つて居《ゐ》る。外《そと》もいつかとつぷり闇《くら》くなつた。おつぎは竈《かまど》の下《した》から火《ひ》のついてる麁朶《そだ》を一《ひと》つとつて手《て》ランプを點《つ》けて上《あが》り框《がまち》の柱《はしら》へ懸《か》けた。お品《しな》はおつぎが單衣《ひとへ》へ半纏《はんてん》を引《ひ》つ掛《か》けた儘《まゝ》であるのを見《み》た。平常《いつも》ならそんなことはないのだが自分《じぶん》が酷《ひど》くぞく/\として心持《こゝろもち》が惡《わる》いのでつい氣《き》になつて
「おつう、そんな姿《なり》で汝《わり》や寒《さむ》かねえか」と聞《き》いた。それから手拭《てぬぐひ》の下《した》から見《み》えるおつぎのあどけない顏《かほ》を凝然《ぢつ》と見《み》た。
「寒《さむ》かあんめえな」おつぎは事《こと》もなげにいつた。與吉《よきち》は懷《ふところ》の中《なか》で頻《しき》りにせがんで居《ゐ》る。お品《しな》は平常《いつも》のやうでなく何《なに》も買《か》つて來《こ》なかつたので、ふと困《こま》つた。
「おつう、そこらに砂糖《さたう》はなかつたつけゝえ」お品《しな》はいつた。おつぎは默《だま》つて草履《ざうり》を脱棄《ぬぎす》てゝ座敷《ざしき》へ駈《か》けあがつて、戸棚《とだな》から小《ちひ》さな古《ふる》い新聞紙《しんぶんし》の袋《ふくろ》を探《さが》し出《だ》して、自分《じぶん》の手《て》の平《ひら》へ少《すこ》し砂糖《さたう》をつまみ出《だ》して
「そら/\」といひながら、手《て》を出《だ》して待《ま》つて居《ゐ》る與吉《よきち》へ遺《や》つた。おつぎは砂糖《さたう》の附《つ》いた自分《じぶん》の手《て》を嘗《な》めた。與吉《よきち》は其《その》砂糖《さたう》をお袋《ふくろ》の懷《ふところ》へこぼしながら危《あぶ》な相《さう》につまんでは口《くち》へ入《い》れる。砂糖《さたう》が竭《つ》きた時《とき》與吉《よきち》は其《その》べとついた手《て》をお袋《ふくろ》の口《くち》のあたりへ出《だ》した。お品《しな》は與吉《よきち》の兩手《りやうて》を攫《つかま》へて舐《ねぶ》つてやつた。お品《しな》は鍋《なべ》の蓋《ふた》をとつて麁朶《そだ》の焔《ほのほ》を翳《かざ》しながら
「こりや芋《いも》か何《なん》でえ」と聞《き》いた。
「うむ、少《すこ》し芋《いも》足《た》して暖《あつた》め返《けえ》したんだ」
「おまんまは冷《つめ》たかねえけ」
「それから雜炊《おぢや》でも拵《こせ》えべと思《おも》つてたのよ」
 お品《しな》は熱《あつ》い物《もの》なら身體《からだ》が暖《あたゝ》まるだらうと思《おも》ひながら、自分《じぶん》は酷《ひど》く懶《ものう》いので何《なん》でもおつぎにさせて居《ゐ》た。おつぎは粘《ねば》り氣《け》のない麥《むぎ》の勝《か》つたぽろ/\な飯《めし》を鍋《なべ》へ入《い》れた。お品《しな》は麁朶《そだ》を一燻《いとく》べ突《つ》つ込んだ。おつぎは鍋《なべ》を卸《おろ》して茶釜《ちやがま》を懸《か》けた。ほうつと白《しろ》く蒸氣《ゆげ》の立《た》つ鍋《なべ》の中《なか》をお玉杓子《たまじやくし》で二三|度《ど》掻《か》き立《た》てゝおつぎは又《また》葢《ふた》をした。おつぎは戸棚《とだな》から膳《ぜん》を出《だ》して上《あが》り框《がまち》へ置《お》いた。柱《はしら》に點《つ》けてある手《て》ランプの光《ひかり》が屆《とゞ》かぬのでおつぎは手探《てさぐ》りでして居《ゐ》る。お品《しな》は左手《ひだりて》に抱《だ》いた與吉《よきち》の口《くち》へ箸《はし》の先《さき》で少《すこ》しづ[#「づ」に「ママ」の注記]ゝ含《ふく》ませながら雜炊《ざふすゐ》をたべた。お品《しな》は芋《いも》を三つ四つ箸《はし》へ立《た》てゝ與吉《よきち》へ持《も》たせた。與吉《よきち》は芋《いも》を口《くち》へ持《も》つていつて直《す》ぐに熱《あつ》いというて泣《な》いた。お品《しな》は與吉《よきち》の頻《ほゝ》をふう/\と吹《ふ》いてそれから芋《いも》を自分《じぶん》の口《くち》で噛《か》んでやつた。お品《しな》の茶碗《ちやわん》は恁《か》うして冷《ひ》えた。おつぎは冷《つめ》たくなつた時《とき》鍋《なべ》のと換《かへ》てやつた。お品《しな》は欲《ほ》しくもない雜炊《ざふすゐ》を三|杯《ばい》までたべた。幾《いく》らか腹《はら》の中《なか》の暖《あたゝ》かくなつたのを感《かん》じた。さうして漸《やうや》く水離《みづばな》れのした茶釜《ちやがま》の湯《ゆ》を汲《く》んで飮《の》んだ。おつぎは庭先《にはさき》の井戸端《ゐどばた》へ出《で》て鍋《なべ》へ一|杯《ぱい》釣瓶《つるべ》の水《みづ》をあけた。おつぎが戻《もど》つた時《とき》
「おつう、今夜《こんや》でなくつてもえゝや」とお品《しな》はいつた。おつぎは默《だま》つて俵《たわら》の側《そば》の手桶《てをけ》へ手《て》を掛《か》けて
「此《これ》へも水《みづ》入《せえ》て置《お》かなくつちやなんめえな」
「さうすればえゝが大變《たえへん》だらえゝぞ」
 お品《しな》がいひ切《き》らぬうちにおつぎは庭《には》へ出《で》た。直《す》ぐに洗《あら》つた鍋《なべ》と手桶《てをけ》を持《も》つて暗《くら》い庭先《にはさき》からぼんやり戸口《とぐち》へ姿《すがた》を見《み》せた。閾《しきゐ》へ一寸《ちよつと》手桶《てをけ》を置《お》いてお品《しな》と顏《かほ》を見合《みあは》せた。手桶《てをけ》の水《みづ》は半分《はんぶん》で兩方《りやうはう》の蒟蒻《こんにやく》へ水《みづ》が乘《の》つた。
 お品《しな》は三|人連《にんづれ》で東隣《ひがしどなり》へ風呂《ふろ》を貰《もら》ひに行《い》つた。東隣《ひがしどなり》といふのは大《おほ》きな一構《ひとかまへ》で蔚然《うつぜん》たる森《もり》に包《つゝ》まれて居《ゐ》る。
 外《そと》は闇《やみ》である。隣《となり》の森《もり》の杉《すぎ》がぞつくりと冴《さ》えた空《そら》へ突《つ》つ込《こ》んで居《ゐ》る。お品《しな》の家《いへ》は以前《いぜん》から此《こ》の森《もり》の爲《た》めに日《ひ》が餘程《よほど》南《みなみ》へ廻《まは》つてからでなければ庭《には》へ光《ひかり》の射《さ》すことはなかつた。お品《しな》の家族《かぞく》は何處《どこ》までも日蔭者《ひかげもの》であつた。それが後《のち》に成《な》つてから方方《はう/″\》に陸地測量部《りくちそくりやうぶ》の三|角測量臺《かくそくりやうだい》が建《た》てられて其《その》上《うへ》に小《ちひ》さな旗《はた》がひら/\と閃《ひらめ》くやうに成《な》つてから其《その》森《もり》が見通《みとほ》しに障《さは》るといふので三四|本《ほん》丈《だけ》伐《き》らせられた。杉《すぎ》の大木《たいぼく》は西《にし》へ倒《たふ》したのでづしんとそこらを恐《おそ》ろしく搖《ゆる》がしてお品《しな》の庭《には》へ横《よこ》たはつた。枝《えだ》は挫《くぢ》けて其《その》先《さき》が庭《には》の土《つち》をさくつた。それでも隣《となり》では其《その》木《き》の始末《しまつ》をつける時《とき》にそこらへ散《ち》らばつた小枝《こえだ》や其《その》他《た》の屑物《くづもの》はお品《しな》の家《いへ》へ與《あた》へたので思《おも》ひ掛《が》けない薪《たきゞ》が出來《でき》たのと、も一《ひと》つは幾《いく》らでも東《ひがし》が隙《す》いたのとで、隣《となり》では自分《じぶん》の腕《うで》を斬《き》られたやうだと惜《を》しんだにも拘《かゝは》らずお品《しな》の家《いへ》では竊《ひそか》に悦《よろこ》んだのであつた。それからといふものはどんな姿《なり》にも日《ひ》が朝《あさ》から射《さ》すやうになつた。それでも有繋《さすが》に森《もり》はあたりを威壓《ゐあつ》して夜《よる》になると殊《こと》に聳然《すつくり》として小《ちひ》さなお品《しな》の家《いへ》は地《ぢ》べたへ蹂《ふみ》つけられたやうに見《み》えた。
 お品《しな》は闇《やみ》の中《なか》へ消《き》えた。さうして隣《となり》の戸口《とぐち》に現《あら》はれた。隣《となり》の雇人《やとひにん》は夜《よ》なべの繩《なは》を綯《な》つて居《ゐ》た。板《いた》の間《ま》の端《はし》へ胡坐《あぐら》を掻《か》いて足《あし》で抑《おさ》へた繩《なは》の端《はし》へ藁《わら》を繼《つ》ぎ足《た》し/\[#「/\」に「ママ」の注記]してちより/\と額《ひたひ》の上《うへ》まで揉《も》み擧《あげ》ては右《みぎ》の手《て》を臀《しり》へ廻《まは》してくつと繩《なは》を後《うしろ》へ扱《こ》く。繩《なは》は其《その》度《たび》に土間《どま》へ落《お》ちる。お品《しな》は板《いた》の間《ま》に小《ちひ》さくなつて居《ゐ》た。軈《やが》て藁《わら》が竭《つ》きると傭人《やとひにん》は各自《てんで》に其《その》繩《なは》を足《あし》から手《て》へ引《ひ》つ掛《か》けて迅速《じんそく》に數《かず》を計《はか》つては土間《どま》から手繰《たぐ》り上《あ》げながら、繼《つな》がつた儘《まゝ》一|房《ばう》づ[#「づ」に「ママ」の注記]ゝに括《くゝ》つた。やがて彼等《かれら》は板《いた》の間《ま》の藁屑《わらくづ》を土間《どま》へ掃《は》きおろしてそれから交代《かうたい》に風呂《ふろ》へ這入《はひ》つた。お品《しな》はそれを見《み》ながら默《だま》つて待《ま》つて居《ゐ》た。お品《しな》は此處《こゝ》へ來《く》ると恁《か》ういふ遠慮《ゑんりよ》をしなければならぬので、少《すこ》しは遠《とほ》くても風呂《ふろ》は外《ほか》へ貰《もら》ひに行《ゆ》くのであつたが其《その》晩《ばん》はどこにも風呂《ふろ》が立《た》たなかつた。お品《しな》は二三|軒《けん》そつちこつちと歩《ある》いて見《み》てから隣《となり》の門《もん》を潜《くゞ》つたのであつた。傭人《やとひにん
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