つぎを擲《なぐ》つた。おつぎは麥《むぎ》の幹《から》と共《とも》に倒《たふ》れた。おつぎは倒《たふ》れた儘《まゝ》しく/\と泣《な》いた。
「大概《てえげえ》解《わか》り相《さう》なもんぢやねえか、こんなざまぢや種《たね》ばかし要《い》つて仕《し》やうありやしねえ」勘次《かんじ》は後《あと》を呟《つぶや》いた。隣《となり》の畑《はたけ》に此《これ》も大豆《だいづ》を蒔《ま》いて居《ゐ》た百姓《ひやくしやう》は駈《か》けて來《き》た。
「勘次《かんじ》さんどうしたもんだいまあ、其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》荒《あら》つぺえことして」と勘次《かんじ》を抑《おさ》へた。
「おつぎ泣《な》かねえでさあ起《お》きて仕事《しごと》しろ、おとつゝあげは俺《おれ》謝罪《あやま》つてやつかんなあ、與吉《よきち》が泣《ねえ》てら、さあ行《い》つて見《み》さつせ」百姓《ひやくしやう》は更《さら》におつぎを賺《すか》した。與吉《よきち》はおつぎの姿《すがた》が見《み》えないので頻《しき》りに喚《よ》んだ。それでもおつぎの聲《こゑ》は聞《きこ》えないので火《ひ》の點《つ》いたやうに泣《な》き出《だ》したのである。おつぎは啜《すゝ》り泣《な》きしながら與吉《よきち》を抱《だ》いた。
「お袋《ふくろ》もねえのにおめえいゝ加減《かげん》にしろよ、可哀想《かあいさう》ぢやねえか、そんなことしておめえ幾《いく》つだと思《おも》ふんだ、さう自分《じぶん》の氣《き》のやうに出來《でき》るもんぢやねえ、佛《ほとけ》の障《さはり》にも成《な》んべぢやねえか」隣畑《となりばたけ》の百姓《ひやくしやう》はいつた。勘次《かんじ》は默《だま》つて畢《しま》つて何《なん》ともいはなかつた。與吉《よきち》はおつぎに抱《だ》かれたので、おつぎの目がまだ濕《うる》うて居《ゐ》るうちに泣《な》き止《やん》だ。
勘次《かんじ》は其《そ》の日《ひ》の夕方《ゆふがた》おつぎが晩餐《ゆふめし》の支度《したく》に立《た》つた時《とき》自分《じぶん》も一《ひと》つに家《うち》へ戻《もど》つた。
彼《かれ》は膝《ひざ》がしらで四《よ》つ偃《ばひ》に歩《ある》きながら座敷《ざしき》へあがつて財布《さいふ》を懷《ふところ》へ捩《ね》ぢ込《こ》んでふいと出《で》た。彼《かれ》は風呂敷包《ふろしきづゝみ》を持《も》つて歸《かへ》つた。彼《かれ》が戸口《とぐち》に立《た》つた時《とき》は家《うち》の内《なか》は眞闇《まつくら》で一寸《ちよつと》は物《もの》の見分《みわけ》もつかなかつた。
草臥《くたび》れ切《き》つた身體《からだ》で彼《かれ》は其《その》夜《よ》も二人《ふたり》を連《つ》れて、自分《じぶん》の所有《もの》ではない其《その》茂《しげ》つた小《ちひ》さな桑畑《くはばたけ》を越《こ》えて南《みなみ》の風呂《ふろ》へ行《い》つた。其處《そこ》にはいつものやうに風呂《ふろ》を貰《もら》ひに女房等《にようばうら》が聚《あつま》つて居《ゐ》た。
「能《よ》くなあ、おつうはよき[#「よき」に傍点]こと面倒《めんだう》見《み》んな、女《をんな》の子《こ》は斯《か》うだからいゝのさな、直《す》ぐ役《やく》に立《た》つかんな」女房《にようばう》の一人《ひとり》がいつた。
「おつぎはどうしたんでえ、今夜《こんや》ひどく威勢《ゐせえ》惡《わり》いな」他《た》の女房《にようばう》がいつた。
「先刻《さつき》俺《おれ》に打《ぶ》つとばされたかんでもあんべえ」勘次《かんじ》は苦笑《くせう》しながらいつた。
「何《なん》でだつぺなまあ、おめえそんなに仕《し》ねえで面倒《めんだう》見《み》てやらつせえよ、此《こ》れがおめえ女《をんな》つ子《こ》でもなくつて見《み》さつせえ、こんな小《ちひせ》えの抱《だけ》えて仕《し》やうあるもんぢやねえな」
「さうだともよ、こらおつうでも無《な》くつちや育《そだ》たなかつたかも知《し》んねえぞ、それこそ因果《いんぐわ》見《み》なくつちやなんねえや、なあおつう」女房等《にようばうら》はいつた。
「俺《おら》がとこちつともこら離《はな》んねえんだよ仕《し》やうねえやうだよ本當《ほんたう》に」おつぎはもう段々《だん/\》手《て》に餘《あま》つて來《き》た與吉《よきち》を膝《ひざ》にしていつた。
「今《いま》ぢや、まるつきしおつかのやうな氣《き》がしてんだな、屹度《きつと》」女房《にようばう》らはまた與吉《よきち》を見《み》ていつた。勘次《かんじ》は側《そば》で只《たゞ》目《め》を屡叩《しばたゝ》いた。
家《うち》へ戻《もど》つてから勘次《かんじ》は
「おつう、手《て》ランプ持《も》つて來《き》て見《み》せえ、汝《われ》げ見《み》せるものあんだから」
おつぎは出《で》る時《とき》に吹消《ふつけし》たブリキの手《て》ランプを點《つ》けて、まだ容子《ようす》がはき/\としなかつた。勘次《かんじ》は先刻《さつき》の風呂敷包《ふろしきづゝみ》を解《と》いた。小《ちひ》さく疊《たゝ》んだ辨慶縞《べんけいじま》の單衣《ひとへ》が出《で》た。
「汝《われ》げ此《これ》遣《や》んべと思《おも》つて持《も》つて來《き》たんだ。此《こ》んでもなよ、おつかゞ地絲《ぢいと》で織《お》つたんだぞ、今《いま》ぢや絲《いと》なんぞ引《ひ》くものなあねえが、おつか等《ら》毎晩《まいばん》のやうに引《ひ》いたもんだ、紺《こん》もなあ能《よ》うく染《そ》まつてつから丈夫《ぢやうぶ》だぞ、おつかは幾《いく》らも引《ひ》つ掛《かけ》ねえつちやつたから、まあだまるつきり新《あたら》しいやうだ見《み》ろ、どうした手《て》ランプまつとこつちへ出《だ》して見《み》せえまあ」勘次《かんじ》は單衣《ひとへ》を少《すこ》し開《ひら》いて鼻《はな》へ當《あて》て臭《にほひ》を嗅《か》いで見《み》た。
「ちつたあ黴臭《かびくさ》くなつたやうだが、そんでも此《この》位《くれえ》ぢや一日《いちんち》干《ほ》せば臭《くさ》えな直《なほ》つから」勘次《かんじ》は分疏《いひわけ》でもするやうにいつた。
おつぎは左手《ひだりて》に持《も》ち換《かへ》た手《て》ランプを翳《かざ》して單衣《ひとへ》を弄《いぢ》つては浴後《よくご》のつやゝかな顏《かほ》に微笑《びせう》を含《ふく》んだ。勘次《かんじ》はおつぎの顏《かほ》ばかり見《み》て居《ゐ》た。さうして其《そ》の機嫌《きげん》が恢復《くわいふく》しかけたのを見《み》て
「どうした、それでも汝《わ》りや氣《き》につたか、おつかゞ物《もの》はみんな汝《われ》がもんだかんな、俺《お》ら汝《わ》ツ等《ら》がだとなりや幾《いく》ら困《こま》つたつて、はあ決《けつ》して質《しち》になんざ置《お》かねえから、大事《でえじ》にして汝《われ》能《よ》うく藏《しま》つて置《お》いたえ」と彼《かれ》は滿足《まんぞく》らしく見《み》えた。おつぎは手《て》ランプを置《お》いて勘次《かんじ》がしたやうに鼻《はな》へ當《あ》てゝ臭《にほひ》を嗅《か》いで見《み》たり、左《ひだり》の手《て》だけを袖《そで》へ透《とほ》して見《み》たりした。
「俺《おら》がにや此《こ》んぢや引《ひ》きじるやうぢやあんめえか」おつぎはそれから手《て》で釣《つ》るして見《み》たりした。
「藏《しま》つて置《お》いて、俺《お》らいまつと大《えか》く成《な》つてから着《き》べかな」
「どうでも汝《われ》がもんだから汝《われ》が好《す》きにしろな」勘次《かんじ》はおつぎの手《て》が動《うご》くに從《したが》つて目《め》を移《うつ》した。手《て》ランプのぼうと立《た》つ油煙《ゆえん》がほぐれた髮《かみ》へ靡《なび》き掛《かゝ》るのも知《し》らずにおつぎはそつちこつちへ單衣《ひとへ》を弄《いぢ》つて居《ゐ》た。
「汝《われ》うつかりして、そうれ燃《も》えつちまあぞ」勘次《かんじ》は油煙《ゆえん》が復《ま》た傾《かたむ》いた時《とき》慌《あわ》てゝおつぎの髮《かみ》へ手《て》を當《あ》てゝいつた。
七
勘次《かんじ》の田畑《たはた》は晩秋《ばんしう》の收穫《しうくわく》がみじめなものであつた。それは氣候《きこう》が惡《わる》いのでもなく、又《また》土地《とち》が惡《わる》いのでもない。耕耘《かううん》の時期《じき》を逸《いつ》して居《ゐ》るのと、肥料《ひれう》の缺乏《けつばふ》とで幾《いく》ら焦慮《あせ》つても到底《たうてい》滿足《まんぞく》な結果《けつくわ》が得《え》られないのである。貧乏《びんばふ》な百姓《ひやくしやう》はいつでも土《つち》にくつゝいて食料《しよくれう》を獲《う》ることにばかり腐心《ふしん》して居《ゐ》るにも拘《かゝ》はらず、其《そ》の作物《さくもつ》が俵《たはら》になれば既《すで》に大部分《だいぶぶん》は彼等《かれら》の所有《しよいう》ではない。其《そ》の所有《しよいう》であり得《う》るのは作物《さくもつ》が根《ね》を以《もつ》て田《た》や畑《はた》の土《つち》に立《た》つて居《ゐ》る間《あひだ》のみである。小作料《こさくれう》を拂《はら》つて畢《しま》へば既《すで》に手《て》をつけられた短《みじか》い冬季《とうき》を凌《しの》ぐ丈《だ》けのことがともすれば漸《やうや》くのことである。彼等《かれら》は自分《じぶん》で田畑《たはた》が忙《いそが》しい時《とき》にも其《そ》の日《ひ》に追《おは》れる食料《しよくれう》を求《もとめ》る爲《ため》に比較的《ひかくてき》收入《みいり》のいゝ日傭《ひよう》に行《ゆ》く。百姓《ひやくしやう》といへば什※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《どんな》に愚昧《ぐまい》でも凡《すべ》ての作物《さくもつ》を耕作《かうさく》する季節《きせつ》を知《し》らないことはない。村落《むら》の端《はし》から端《はし》まで皆《みな》同《どう》一の仕事《しごと》に屈託《くつたく》して居《ゐ》るのだから其《そ》の季節《きせつ》を假令《たとひ》自分《じぶん》が忘《わす》れたとしても全《まつた》く忘《わす》れ去《さ》ることの出來《でき》るものではない。然《しか》しもう季節《きせつ》だと知《し》つて見《み》ても其《そ》の日《ひ》/\の食料《しよくれう》を求《もと》める爲《た》めに勞力《らうりよく》を割《さ》くのと、肥料《ひれう》の工夫《くふう》がつかなかつたりするのとで作物《さくもつ》の生育《せいいく》からいへば三日《みつか》を爭《あらそ》ふやうな時《とき》でも思《おも》ひながら手《て》が出《で》ないのである。以前《いぜん》のやうに天然《てんねん》の肥料《ひれう》を獲《う》ることが今《いま》では出來《でき》なくなつて畢《しま》つた。何處《どこ》の林《はやし》でも落葉《おちば》を掻《か》くことや青草《あをぐさ》を刈《か》ることが皆《みな》錢《ぜに》に餘裕《よゆう》のあるものゝ手《て》に歸《き》して畢《しま》つた。それと共《とも》に林《はやし》は封鎖《ふうさ》されたやうな姿《すがた》に成《な》つて居《ゐ》る。冬《ふゆ》毎《ごと》に熊手《くまで》の爪《つめ》の及《およ》ぶ限《かぎ》り掻《か》いて行《ゆ》くので、草《くさ》も隨《したが》つて短《みじか》くなつて腰《こし》を沒《ぼつ》するやうな處《ところ》は滅多《めつた》にない。其《そ》の草《くさ》も更《さら》に土《つち》から刈《か》つて行《ゆ》くので次第《しだい》に土《つち》が痩《や》せて行《ゆ》く。だから空手《からて》では何處《どこ》へ行《い》つても竊取《せつしゆ》せざる限《かぎり》は存分《ぞんぶん》に軟《やはら》かな草《くさ》を刈《か》ることは出來《でき》ない。貧乏《びんばう》な百姓《ひやくしやう》は落葉《おちば》でも青草《あをぐさ》でも、他人《ひと》の熊手《くまで》や鎌《かま》を入《い》れ去《さ》つた後《あと》に求《もと》める。さうして瘠《や》せて行《ゆ》く土《つち》
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