して遮《さへぎ》つて居《ゐ》る密樹《みつじゆ》の梢《こずゑ》を透《とほ》してどこからか日《ひ》が地上《ちじやう》に光《ひかり》を投《な》げて居《ゐ》るやうなものであつた。彼等《かれら》の心《こゝろ》は唯《たゞ》明《あか》るかつたのである。
お品《しな》は十九の春《はる》に懷胎《くわいたい》した。自分《じぶん》でもそれは暫《しばら》く知《し》らずに居《ゐ》た。季節《きせつ》が段々《だん/\》ぽかついて、仕事《しごと》には單衣《ひとへもの》でなければならぬ頃《ころ》に成《な》つたので女同士《をんなどうし》の目《め》は隱《かく》しおほせないやうに成《な》つた。お袋《ふくろ》はお品《しな》をまだ子供《こども》のやうに思《おも》つて迂濶《うくわつ》にそれを心付《こゝろづ》かなかつた。本當《ほんたう》にさうだと思《おも》つた時《とき》はお品《しな》は間《ま》もなく肩《かた》で息《いき》するやうに成《な》つた。さうして身體《からだ》がもう棄《す》てゝ置《お》けない場合《ばあひ》に成《な》つたので兩方《りやうはう》の姻戚《みより》の者《もの》でごた/\と協議《けふぎ》が起《おこ》つた。勘次《かんじ》もお品《しな》も其《その》時《とき》互《たがひ》に相《あひ》慕《した》ふ心《こゝろ》が鰾膠《にべ》の如《ごと》く強《つよ》かつた。彼等《かれら》は惡戲者《いたづらもの》に水《みづ》をさゝれて慌《あわ》てた機會《はづみ》に或《ある》夜《よ》遁《に》げ出《だ》して畢《しま》つた。それは、此《こ》の儘《まゝ》では二人《ふたり》は迚《と》ても添《そ》はされぬ容子《ようす》だからどうしても一《ひと》つに成《な》らうといふのならば何處《どこ》へか二人《ふたり》で身《み》を隱《かく》すのである。さうして愈《いよ/\》となれば俺《おれ》がどうにでも其處《そこ》は始末《しまつ》をつけて遣《や》るから、何《なん》でも愚圖《ぐづ》/\して居《ゐ》ちや駄目《だめ》だとお品《しな》の心《こゝろ》を教唆《そゝ》つたのであつた。お品《しな》から一|心《しん》に勘次《かんじ》へ迫《せま》つた。勘次《かんじ》は其《そ》の頃《ころ》からお品《しな》のいふなりに成《な》るのであつた。二人《ふたり》は遠《とほ》くは行《ゆ》けないので、隣村《となりむら》の知合《しりあひ》へ身《み》を投《とう》じた。兩方《りやうはう》の姻戚《みより》が騷《さわ》ぎ出《だ》した。恁《か》ういふ同志《どうし》へのこんな惡戲《いたづら》は何處《どこ》でも能《よ》く反覆《くりかへ》されるのであつた。さうして成功《せいこう》した惡戲者《いたづらもの》は
「仕事《しごと》は何《なん》でも牝鷄《めんどり》でなくつちや甘《うま》く行《い》かねえよ」といつては陰《かげ》で笑《わら》ふのである。
「外聞《げえぶん》曝《さら》しやがつて」と卯平《うへい》は怒《おこ》つたがそれが爲《ため》に事《こと》は容易《ようい》に運《はこ》ばれた。勘次《かんじ》は婿《むこ》に成《な》つたのである。簡單《かんたん》な式《しき》が行《おこな》はれた。俄《にはか》に媒妁人《ばいしやくにん》と定《さだ》められたものが一人《ひとり》で勘次《かんじ》を連《つ》れて行《い》つた。卯平《うへい》はむつゝりとしてそれを受《う》けた。平生《へいぜい》行《ゆ》きつけた家《うち》なので勘次《かんじ》は極《きま》り惡相《わるさう》に坐《すわ》つた。お品《しな》は不斷衣《ふだんぎ》の儘《まゝ》襷掛《たすきがけ》で大儀相《たいぎさう》な體躯《からだ》を動《うご》かして居《ゐ》て勘次《かんじ》の側《そば》へは坐《すわ》らなかつた。媒妁人《ばいしやくにん》が只《たゞ》酒《さけ》を飮《の》んで騷《さわ》いだ丈《だけ》であつた。お品《しな》は間《ま》もなく女《をんな》の子《こ》を産《う》んだ。それがおつぎであつた。季節《きせつ》は暮《くれ》の押《お》し詰《つま》つた忙《いそが》しい時《とき》であつた。お袋《ふくろ》はお品《しな》が好《す》いて居《ゐ》るので、勘次《かんじ》を不足《ふそく》な婿《むこ》と思《おも》つては居《ゐ》なかつた。勘次《かんじ》は其《その》暮《くれ》も亦《また》主人《しゆじん》へ身《み》を任《まか》せる筈《はず》で前借《ぜんしやく》した給金《きふきん》を、お品《しな》の家《うち》へ注《つ》ぎ込《こ》んだのでお袋《ふくろ》は却《かへつ》て悦《よろこ》んで居《ゐ》た。卯平《うへい》は唯《たゞ》勘次《かんじ》を蟲《むし》が好《すか》なかつた。自分《じぶん》は其《その》大《おほ》きな體躯《からだ》でぐい/\と仕事《しごと》をしつけたのに勘次《かんじ》が小《ちひ》さな體躯《からだ》でちよこ/\と駈《か》け歩《ある》いたり、ただ吩咐《いひつけ》ばかり聞《き》いて居《ゐ》るので自分《じぶん》の機轉《きてん》といふものが一|向《かう》なかつたりするので酷《ひど》く齒痒《はがゆ》く思《おも》つて居《ゐ》た。然《しか》し自分《じぶん》は入夫《にふふ》といふ關係《くわんけい》もあるしそれに生來《せいらい》の寡言《むくち》なので姻戚《みより》の間《あひだ》の協議《けふぎ》にも彼《かれ》は
「どうでもわしはようがすからえゝ鹽梅《あんべい》に極《き》めておくんなせえ」とのみいふのであつた。
勘次《かんじ》は百姓《ひやくしやう》の尤《もつと》も忙《せは》しい其《そ》の頃《ころ》の五|月《ぐわつ》に病氣《びやうき》に成《な》つた。彼《かれ》は轡《くつわ》へ附《つ》けた竹竿《たけざを》の端《はし》を執《と》つて馬《うま》を馭《ぎよ》しながら、毎日《まいにち》泥《どろ》だらけになつて田《た》の代掻《しろかき》をした。どうかするとそんな季節《きせつ》に東南風《いなさ》が吹《ふ》いて慄《ふる》へる程《ほど》冷《ひ》えることがある。勘次《かんじ》は其《そ》の冷《ひ》えが障《さは》つたのであつたらうか心持《こゝろもち》が惡《わる》いというて田《た》から戻《もど》つて來《く》るとそれつ切《き》り枕《まくら》も上《あが》らぬやうになつた。能《よ》く馬《うま》の病氣《びやうき》に飮《の》ませる赤玉《あかだま》といふ藥《くすり》を幾粒《いくつぶ》か嚥《の》んで彼《かれ》は蒲團《ふとん》へくるまつて居《ゐ》た。彼《かれ》はどうにか病氣《びやうき》の凌《しの》ぎがつけば卯平《うへい》の側《そば》へは行《ゆ》きたくなかつた。それと一《ひと》つには我慢《がまん》して仕事《しごと》に出《で》れば碌《ろく》には働《はたら》けなくても一|日《にち》の勤《つと》めを果《はた》したことに成《な》るけれども、丸《まる》で休《やす》んで畢《しま》へば其《そ》の日《ひ》だけの割當勘定《わりあてかんぢやう》が給金《きふきん》から差引《さしひ》かれなければ成《な》らぬので彼《かれ》はそれを畏《おそ》れた。然《しか》し病氣《びやうき》は馬《うま》に飮《の》ませる藥《くすり》の赤玉《あかだま》では直《すぐ》には癒《なほ》らなかつた。それで彼《かれ》はお品《しな》の厄介《やくかい》に成《な》る積《つもり》で、次《つぎ》の朝《あさ》早《はや》く朋輩《ほうばい》の背《せ》に運《はこ》ばれた。卯平《うへい》は澁《しぶ》り切《き》つた顏《かほ》で迎《むか》へた。お品《しな》が蒲團《ふとん》を敷《し》いて遣《や》つたので勘次《かんじ》はそれへごろりと俯伏《うつぶ》しになつて其《そ》の額《ひたひ》を交叉《かうさ》した手《て》に埋《うづ》めた。家《うち》の者《もの》は皆《みな》田《た》へ出《で》なければならなかつた。病人《びやうにん》に構《かま》つて居《ゐ》ることは仕事《しごと》が許《ゆる》さなかつた。お袋《ふくろ》は出《で》る時《とき》に表《おもて》の大戸《おほど》も閉《た》てながら
「腹《はら》減《へ》つたら此處《こゝ》にあんぞ」といつてばたりと飯臺《はんだい》の蓋《ふた》をした。後《あと》で勘次《かんじ》は蒲團《ふとん》からずり出《だ》して見《み》たら、麥《むぎ》ばかりのぽろ/\した飯《めし》であつた。其《そ》の時分《じぶん》お品《しな》の家《うち》ではさういふ食料《しよくれう》で生命《いのち》を繋《つな》いで居《ゐ》たのである。勘次《かんじ》は奉公《ほうこう》にばかり出《で》て居《ゐ》たのでそれ程《ほど》麁末《そまつ》な物《もの》を口《くち》にしたことはない。それでどうしても手《て》を出《だ》さうといふ心《こゝろ》が起《おこ》らなかつた。午餐《ひる》に家《うち》の者《もの》は田《た》から戻《もど》つて其《そ》の飯《めし》を喰《た》べた。ちつとはどうだとお袋《ふくろ》に勸《すゝ》められても勘次《かんじ》は唯《たゞ》俯伏《うつぶし》に成《な》つて居《ゐ》た。
「此《こ》の野郎《やらう》こんな忙《せは》しい時《とき》に轉《ころ》がり込《こ》みやがつてくたばる積《つもり》でもあんべえ」と卯平《うへい》は平生《へいぜい》になく恁《こ》んなことをいつた。勘次《かんじ》は後《あと》で獨《ひと》り泣《な》いた。彼《かれ》はお品《しな》がこつそり蒲團《ふとん》の下《した》へ入《いれ》て呉《く》れた煎餅《せんべい》を噛《かぢ》つたりして二三|日《にち》ごろ/\して居《ゐ》た。其《そ》の頃《ころ》は駄菓子店《だぐわしみせ》も滅多《めつた》に無《な》かつたので此《こ》れ丈《だけ》のことがお品《しな》には餘程《よほど》の心竭《こゝろづく》しであつたのである。勘次《かんじ》はどうも卯平《うへい》が厭《いや》で且《か》つ怖《おそ》ろしくつて仕《し》やうがないので少《すこ》し身體《からだ》が恢復《くわいふく》しかけると皆《みんな》が田《た》へ出《で》た後《あと》でそつと拔《ぬ》けて村《むら》の中《うち》の姻戚《みより》の處《ところ》へ行《い》つて板藏《いたぐら》の二|階《かい》へ隱《かく》れて寢《ね》て居《ゐ》た。夜《よ》になつたらどうして知《し》つたかお品《しな》はおつぎを背負《せお》つて鷄《にはとり》を一|羽《は》持《も》つて來《き》た。
「勘次《かんじ》さん惡《わる》く思《おも》はねえでくろうよ、俺《おら》惡《わる》くする積《つもり》はねえが、仕《し》やうねえからよ」とお品《しな》は訴《うつた》へるやうにいふのであつた。お品《しな》は毎晩《まいばん》のやうに來《き》て板藏《いたぐら》のさる[#「さる」に傍点]を内《うち》から卸《おろ》して泊《とま》つて行《い》つた。それでも勘次《かんじ》は卯平《うへい》の側《そば》が厭《いや》なので戻《もど》らないといふ積《つもり》で他《た》の村落《むら》へ漂泊《へうはく》した。復《また》土地《とち》へ歸《かへ》つて來《く》ると、畑《はたけ》に居《ゐ》ても田《た》に居《ゐ》てもお品《しな》が迫《せま》つて來《く》るので、彼《かれ》は農具《のうぐ》を棄《す》てゝ遁《に》げることさへあつた。それが如何《どう》したものか何時《いつ》の間《ま》にやら酷《ひど》く自分《じぶん》からお品《しな》の側《そば》へ行《ゆ》きたく成《な》つて畢《しま》つて、他人《たにん》から却《かへつ》て揶揄《からか》はれるやうに成《た》つたのである。
勘次《かんじ》は奉公《ほうこう》の年季《ねんき》を勤《つと》めあげて歸《かへ》つたと成《な》つた時《とき》、卯平《うへい》とは一《ひと》つ家《うち》で竈《かまど》を別《べつ》にすることに成《な》つた。夫婦《ふうふ》と乳呑兒《ちのみご》と三|人《にん》の所帶《しよたい》で彼等《かれら》は卯平《うへい》から殼蕎麥《からそば》が一|斗《と》五|升《しよう》と麥《むぎ》が一|斗《と》と、後《あと》にも先《さき》にもたつた此《こ》れ丈《だけ》が分《わ》けられた。正月《しやうぐわつ》の饂飩《うどん》も打《う》てなかつた。有繋《さすが》にお袋《ふくろ》は小麥粉《こむぎこ》を隱《かく》してお品《しな》へ遣《や》つた。それでも勘次《かんじ》は怖《おそ》ろしい卯平《うへい》と一《ひと》つ竈《かまど》であるよりも却《かへつ》て
前へ
次へ
全96ページ中14ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
長塚 節 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング