いさくこうじ》へ人《ひと》に任《まか》せて行《い》つたのである。
「只《たゞ》かうしてぐづ/\して居《ゐ》ても仕《し》やうあんめえな」お品《しな》は其《そ》の時《とき》も勘次《かんじ》の判斷《はんだん》を促《うなが》して見《み》た。
「俺《おれ》もさうゆはれても困《こま》つから、おめえ好《す》きにしてくろうよ」勘次《かんじ》は只《たゞ》恁《か》ういつた。
勘次《かんじ》が去《さ》つてからお品《しな》は其《その》混雜《こんざつ》した然《しか》も寂《さび》しい世間《せけん》に交《まじ》つて遣瀬《やるせ》のないやうな心持《こゝろもち》がして到頭《たうとう》罪惡《ざいあく》を決行《けつかう》して畢《しま》つた。お品《しな》の腹《はら》は四|月《つき》であつた。其《そ》の頃《ころ》の腹《はら》が一|番《ばん》危險《きけん》だといはれて居《ゐ》る如《ごと》くお品《しな》はそれが原因《もと》で斃《たふ》れたのである。胎兒《たいじ》は四|月《つき》一|杯《ぱい》籠《こも》つたので兩性《りやうせい》が明《あきら》かに區別《くべつ》されて居《ゐ》た。小《ちひ》さい股《また》の間《あひだ》には飯粒程《めしつぶほど》の突起《とつき》があつた。お品《しな》は有繋《さすが》に惜《を》しい果敢《はか》ない心持《こゝろもち》がした。第《だい》一に事《こと》の發覺《はつかく》を畏《おそ》れた。それで一|旦《たん》は能《よ》く世間《せけん》の女《をんな》のするやうに床《ゆか》の下《した》に埋《うづ》めたのをお品《しな》は更《さら》に田《た》の端《はた》の牛胡頽子《うしぐみ》の側《そば》に襤褸《ぼろ》へくるんで埋《うづ》めたのである。
お品《しな》は身體《からだ》の恢復《くわいふく》するまで凝然《ぢつ》として蒲團《ふとん》にくるまつて居《ゐ》れば或《あるひ》はよかつたかも知《し》れぬ。十|幾年前《いくねんまへ》には一|切《さい》を死《し》んだお袋《ふくろ》が處理《しより》してくれたのであつたが、今度《こんど》は勘次《かんじ》も居《ゐ》ないしでお品《しな》は生計《くらし》の心配《しんぱい》もしなくては居《ゐ》られなかつた。一《ひと》つにはそれを世間《せけん》に隱蔽《いんぺい》しようといふ念慮《ねんりよ》から知《し》らぬ容子《ようす》を粧《よそほ》ふ爲《ため》に強《し》ひても其《そ》の身《み》を動《うご》かしたのであつた。然《しか》しながら其《そ》の身《み》を殺《ころ》した黴菌《ばいきん》がどうして侵入《しんにふ》したであつたらうか。お品《しな》は卵膜《らんまく》を破《やぶ》る手術《しゆじゆつ》に他人《たにん》を煩《わずら》はさなかつた。さうして其《その》※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]入《さうにふ》した酸漿《ほゝづき》の根《ね》が知覺《ちかく》のないまでに輕微《けいび》な創傷《さうしやう》を粘膜《ねんまく》に與《あた》へて其處《そこ》に黴菌《ばいきん》を移植《いしよく》したのであつたらうか、それとも毎日《まいにち》煙《けぶり》の如《ごと》く浴《あび》せ掛《か》けた埃《ほこり》から來《き》たのであつたらうか、それを明《あき》らめることは不可能《ふかのう》でなければならぬ。然《しか》し孰《いづ》れにしても病毒《びやうどく》は土《つち》が齎《もたら》したのでなければならなかつた。
葬式《さうしき》の次《つぎ》の日《ひ》は又《また》近所《きんじよ》の人《ひと》が來《き》た。勘次《かんじ》は其《そ》の借《か》りた羽織《はおり》と袴《はかま》を着《き》て村中《むらぢう》へ義理《ぎり》に廻《まは》つた。土瓶《どびん》へ入《い》れた水《みづ》を持《も》つて墓參《はかまゐ》りに行《い》つて、それから膳椀《ぜんわん》も皆《みな》返《かへ》して近所《きんじよ》の人々《ひと/″\》も歸《かへ》つた後《のち》勘次《かんじ》は※[#「煢−冖」、第4水準2−79−80]然《けいぜん》として古《ふる》い机《つくゑ》の上《うへ》に置《お》かれた白木《しらき》の位牌《ゐはい》に對《たい》して堪《たま》らなく寂《さび》しい哀《あは》れつぽい心持《こゝろもち》になつた。二三|日《にち》の間《あひだ》は片口《かたくち》や摺鉢《すりばち》に入《い》れた葬式《さうしき》の時《とき》の残物《ざんぶつ》を喰《た》べて一|家《か》は只《たゞ》ばんやりとして暮《くら》した。雨戸《あまど》はいつものやうに引《ひ》いた儘《まゝ》で陰氣《いんき》であつた。卯平《うへい》を加《くは》へて四|人《にん》はお互《たがひ》が只《たゞ》冷《ひやゝ》かであつた。卯平《うへい》は其《そ》の薄暗《うすぐら》い家《うち》の中《なか》に只《たゞ》煙草《たばこ》を吹《ふ》かしては大《おほ》きな眞鍮《しんちう》の煙管《きせる》で火鉢《ひばち》を叩《たゝ》いて居《ゐ》た。卯平《うへい》と勘次《かんじ》とは其《そ》の間《あひだ》碌《ろく》に口《くち》も利《きか》なかつた。勘次《かんじ》は自分《じぶん》の身體《からだ》と自分《じぶん》の心《こゝろ》とが別々《べつ/\》に成《な》つたやうな心持《こゝろもち》で自分《じぶん》が自分《じぶん》をどうする事《こと》も出來《でき》なかつた。それでも小作米《こさくまい》のことは其《そ》の念頭《ねんとう》から沒《ぼつ》し去《さ》ることはなかつた。貧乏《びんばふ》な小作人《こさくにん》の常《つね》として彼等《かれら》は何時《いつ》でも恐怖心《きようふしん》に襲《おそ》はれて居《ゐ》る。殊《こと》に其《そ》の地主《ぢぬし》を憚《はゞか》ることは尋常《じんじやう》ではない。さうして自分《じぶん》の作《つく》り來《きた》つた土地《とち》は死《し》んでも噛《かぢ》り附《つ》いて居《ゐ》たい程《ほど》それを惜《をし》むのである。彼等《かれら》の最初《さいしよ》に踏《ふ》んだ土《つち》の強大《きやうだい》な牽引力《けんいんりよく》は永久《えいきう》に彼等《かれら》を遠《とほ》く放《はな》たない。彼等《かれら》は到底《たうてい》其《そ》の土《つち》に苦《くる》しみ通《とほ》さねばならぬ運命《うんめい》を持《も》つて居《ゐ》るのである。
勘次《かんじ》はお品《しな》の葬式《さうしき》が濟《す》むと直《すぐ》に新《あたら》しい俵《たはら》へ入《い》れた小作米《こさくまい》を地主《ぢぬし》へ運《はこ》んで行《ゆ》かねば成《な》らぬとそれが心《こゝろ》を苦《くる》しめて居《ゐ》た。然《しか》し其《そ》の時《とき》は其《そ》の新《あたら》しい俵《たはら》の一つは輪《わ》に成《な》つた繩《なは》から拔《ぬ》けて、米《こめ》は叩《たゝ》いても幾《いく》らも出《で》なかつた。勘次《かんじ》は次《つぎ》の年《とし》には殆《ほとん》ど自分《じぶん》一人《ひとり》の手《て》で農事《のうじ》を勵《はげ》まなくてはならぬ。例年《れいねん》のやうに忙《いそが》しい季節《きせつ》に日傭《ひよう》に行《ゆ》くことも出來《でき》まいし、それにはお袋《ふくろ》に捨《す》てられた二人《ふたり》の子供《こども》も有《あ》ることだし、今《いま》から穀《こく》の用意《ようい》もしなくては成《な》らぬと思《おも》ふと自分《じぶん》の身上《しんしやう》から一|俵《ぺう》の米《こめ》を減《げん》じては到底《たうてい》立《た》ち行《ゆ》けぬことを深《ふか》く思案《しあん》して彼《かれ》は眠《ねむ》らないこともあつた。然《しか》し他《た》に方法《はうはふ》もないので彼《かれ》は地主《ぢぬし》へ哀訴《あいそ》して小作米《こさくまい》の半分《はんぶん》を次《つぎ》の秋《あき》まで貸《か》して貰《もら》つた。地主《ぢぬし》は東隣《ひがしどなり》の舊主人《きうしゆじん》であつたのでそれも承諾《しようだく》された。彼《かれ》は更《さら》に其《そ》の僅《わづか》な米《こめ》の一|部《ぶ》を割《さ》いて錢《ぜに》に換《か》へねばならぬ程《ほど》懷《ふところ》が窮《きう》して居《ゐ》たのである。
勘次《かんじ》はそれから復《ま》た利根川《とねがは》の工事《こうじ》へ行《ゆ》かねばならないと思《おも》つて居《ゐ》た。それは彼《かれ》が僅《わづか》の間《あひだ》に見《み》た放浪者《はうらうしや》の怖《おそ》ろしさを思《おも》つて、假令《たとひ》どうしても其《その》統領《とうりやう》を欺《あざむ》いて其《そ》の僅少《きんせう》な前借《ぜんしやく》の金《かね》を踏《ふ》み倒《たふ》す程《ほど》の料簡《れうけん》が起《おこ》されなかつたのである。其《そ》の内《うち》に張元《ちやうもと》から葉書《はがき》が來《き》た。彼《かれ》は只管《ひたすら》恐怖《きようふ》した。然《しか》し二人《ふたり》の子《こ》を見棄《みす》てゝ行《ゆ》くことが出來《でき》ないので、どうしていゝか判斷《はんだん》もつかなかつた。さうする内《うち》にお品《しな》の七日も過《す》ぎた。彼《かれ》は煩悶《はんもん》した。唯《たゞ》一つ卯平《うへい》が野田《のだ》へ行《ゆ》くのを暫《しばら》く猶豫《いうよ》して貰《もら》つて自分《じぶん》は其《そ》の間《あひだ》に少《すこ》しでも小遣錢《こづかひせん》を稼《かせ》いで來《き》たいと思《おも》つた。然《しか》しそれも直接《ちよくせつ》には云《い》ひ出《だ》せないので、例《れい》の桑畑《くはばたけ》一|枚《まい》隔《へだ》てた南《みなみ》へ頼《たの》んだ。數日來《すうじつらい》彼《かれ》は卯平《うへい》が其《そ》の大《おほ》きな體躯《からだ》を火鉢《ひばち》の側《そば》に据《す》ゑて煙管《きせる》を噛《か》んではむつゝりとして居《ゐ》るのを見《み》ると、何《なん》となく憚《はゞか》つて成《な》るべく其《そ》の視線《しせん》を避《さ》けるやうに遠《とほ》ざかつて居《ゐ》ることを餘儀《よぎ》なくされるのであつた。
勘次《かんじ》とお品《しな》は相思《さうし》の間柄《あひだがら》であつた。勘次《かんじ》が東隣《ひがしどなり》の主人《しゆじん》に傭《やと》はれたのは十七の冬《ふゆ》で十九の暮《くれ》にお品《しな》の婿《むこ》に成《な》つてからも依然《いぜん》として主人《しゆじん》の許《もと》に勤《つと》めて居《ゐ》た。彼《かれ》は其《その》當時《たうじ》お品《しな》の家《うち》へは隣《となり》づかりといふので能《よ》く出入《でい》つた。一《ひと》つには形《かたち》づくつて來《き》たお品《しな》の姿《すがた》を見《み》たい所爲《せゐ》でもあつた。彼《かれ》は秋《あき》の大豆打《だいづうち》といふ日《ひ》の晩《ばん》などには、唐箕《たうみ》へ掛《か》けたり俵《たはら》に作《つく》つたりする間《あひだ》に二|升《しよう》や三|升《じよう》の大豆《だいづ》は竊《ひそか》に隱《かく》して置《お》いてお品《しな》の家《うち》へ持《も》つて行《い》つた。さうして豆熬《まめいり》を噛《かじ》つては夜更《よふけ》まで噺《はなし》をすることもあつた。お品《しな》の家《うち》からは近所《きんじよ》に風呂《ふろ》の立《た》たぬ時《とき》は能《よ》く來《き》た。忙《いそが》しい仕事《しごと》には傭《やと》はれても來《き》た。さういふ間《あひだ》に彼等《かれら》の關係《くわんけい》が成立《なりた》つたのである。それはお品《しな》が十六の秋《あき》である。それから足掛《あしかけ》三|年《ねん》經《た》つた。勘次《かんじ》には主人《しゆじん》の家《うち》が愉快《ゆくわい》に能《よ》く働《はたら》くことが出來《でき》た。彼《かれ》の體躯《からだ》は寧《むし》ろ矮小《こつぶ》であるが、其《その》きりつと緊《しま》つた筋肉《きんにく》が段々《だん/″\》仕事《しごと》を上手《じやうず》にした。
假令《たとひ》どんな物《もの》が彼等《かれら》の間《あひだ》を隔《へだ》てようとしても彼等《かれら》が相《あひ》近《ちか》づく機會《きくわい》を見出《みいだ》したことは鬱蒼《うつさう》と
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