ぐら/\したんぢやなかつたつけゝえ」
「其《その》筈《はず》だんべな、後《あと》が心配《しんぺえ》で仕《し》やうねえ佛《ほとけ》はあゝえに動《いご》くんだつちぞおめえ」
「勘次《かんじ》さんこと欲《ほ》しくつて後《あと》へ残《のこ》してくのが辛《つれ》えんだごつさら」
「そんだがよ、餘《あんま》り欲《ほ》しがられつと遂《しめえ》にや迎《むけえ》に來《き》て連《つ》れ行《ゆ》かれつとよ」
「おゝ厭《や》だ俺《お》ら」
「連《つ》れてつてくろつちつたつておめえ等《ら》こた迎《むけえ》に來《く》るものもあんめえな」
 口々《くちぐち》に恁《こ》んなことが遠慮《ゑんりよ》もなく反覆《くりかへ》された。間《あひだ》が少時《しばし》途切《とぎ》れた時《とき》
「お品《しな》さんも可惜《あつたら》命《いのち》をなあ」と一人《ひとり》が思《おも》ひ出《だ》したやうにいつた。
「本當《ほんたう》だ他人《ひと》のやらねえこつてもありやしめえし」他《た》の女房《にようばう》が相槌《あひづち》を打《う》つた。
「風邪《かぜ》引《ひ》いたなんてか、今度《こんだ》の風邪《かぜ》は強《つえ》えから起《お》きらんねえなんて、しらばつくれてな」
「死《し》ぬ者《もの》貧乏《びんばふ》なんだよ」
「そんだがお品《しな》さんは自分《じぶん》のがばかりぢやねえつちんぢやねえけ」
「さうだとよ、大《え》けえ聲《こゑ》ぢやゆはんねえが、五十錢《ごくわん》とか八十錢《はちくわん》とか取《と》つて他人《ひと》のがも行《や》つたんだとよ」
「八十錢《はちくわん》づゝも取《と》つちやおめえ、女《をんな》の手《て》ぢやたえしたもんだがな、今度《こんだ》自分《じぶん》で死《し》んちまあなんて、行《や》んねえこつたなあ」
「罪《つみ》作《つく》つた罰《ばつ》ぢやねえか」
 遠慮《ゑんりよ》もなくそれからそれと移《うつる》のである。
「そんなことゆつて、今《いま》出《で》た佛《ほとけ》のことをおめえ等《ら》、とつゝかれつから見《み》ろよ」
 他《た》の一人《ひとり》の女房《にようばう》がいつた時《とき》噺《はなし》が暫時《しばらく》途切《とぎ》れて靜《しづ》まつた。一人《ひとり》の女房《にようばう》が皿《さら》の大根《だいこ》を手《て》で撮《つま》んで口《くち》へ入《い》れた。
「さうえ處《とこ》他人《ひと》に見《み》られたらどうしたもんだえ」側《そば》からいはれて
「見《み》てやあしめえな」と其《その》女房《にようばう》は裏戸《うらど》の口《くち》から庭《には》の方《はう》を見《み》た。さうして
「俺《お》ら見《み》てえな婆《ばゞあ》はどうで此《こ》れから娶《よめ》にでも行《い》くあてがあんぢやなし、構《かま》あねえこたあ構《かま》あねえがな」といつて笑《わら》つた。
 一同《みんな》どつと笑聲《わらひごゑ》を發《はつ》した。
 柩《ひつぎ》を送《おく》つた人々《ひとびと》が離れ/″\に歸《かへ》つて來《く》るまでは雜談《ざつだん》がそれからそれと止《や》まなかつた。平日《へいじつ》何等《なんら》の慰藉《ゐしや》を與《あた》へらるゝ機會《きくわい》をも有《いう》して居《ゐ》ないで、然《しか》も聞《き》きたがり、知《し》りたがり、噺《はなし》たがる彼等《かれら》は三|人《にん》とさへ聚《あつま》れば膨脹《ばうちやう》した瓦斯《ガス》が袋《ふくろ》の破綻《はたん》を求《もと》めて遁《に》げ去《さ》る如《ごと》く、遂《つひ》には前後《ぜんご》の分別《ふんべつ》もなく其《その》舌《した》を動《うご》かすのである。偶《たま/\》抽斗《ひきだし》から出《だ》した垢《あか》の附《つ》かぬ半纏《はんてん》を被《き》て、髮《かみ》にはどんな姿《なり》にも櫛《くし》を入《い》れて、さうして弔《くや》みを濟《すま》すまでは彼等《かれら》は平常《いつも》にないしほらしい容子《ようす》を保《たも》つのである。それは改《あらた》まつて不馴《ふなれ》な義理《ぎり》を述《の》べねばならぬといふ懸念《けねん》が、僅《わづか》ながら彼等《かれら》の心《こゝろ》を支配《しはい》して居《ゐ》るからである。然《しか》し土間《どま》へおりて、襷《たすき》が掛《か》けられて、膳《ぜん》や椀《わん》を洗《あら》つたり拭《ふ》いたり其《その》手《て》を忙《いそが》しく動《うご》かすやうに成《な》れば、彼等《かれら》の心《こゝろ》はそれに曳《ひ》かされて其《そ》の聞《き》きたがり、知《し》りたがり、噺《はな》したがる性情《せいじやう》の自然《しぜん》に歸《かへ》るのである。假令《たとひ》他人《たにん》の爲《ため》には悲《かな》しい日《ひ》でも其《そ》の一|日《じつ》だけは自己《じこ》の生活《せいくわつ》から離《はな》れて若干《じやくかん》の人々《ひとびと》と一|緒《しよ》に集合《しふがふ》することが彼等《かれら》には寧《むし》ろ愉快《ゆくわい》な一|日《にち》でなければならぬ。間斷《かんだん》なく消耗《せうまう》して行《ゆ》く肉體《にくたい》の缺損《けつそん》を補給《ほきふ》するために攝取《せつしゆ》する食料《しよくれう》は一|椀《わん》と雖《いへど》も悉《こと/″\》く自己《じこ》の慘憺《さんたん》たる勞力《らうりよく》の一|部《ぶ》を割《さ》いて居《ゐ》るのである。然《しか》し他人《たにん》を悼《いた》む一|日《にち》は其處《そこ》に自己《じこ》のためには何等《なんら》の損失《そんしつ》もなくて十|分《ぶん》に口腹《こうふく》の慾《よく》を滿足《まんぞく》せしめることが出來《でき》る。他人《たにん》の悲哀《ひあい》はどれ程《ほど》痛切《つうせつ》でもそれは自己《じこ》當面《たうめん》の問題《もんだい》ではない。如斯《かくのごとく》にして彼等《かれら》の聚《あつま》る處《ところ》には常《つね》に笑聲《せうせい》を絶《た》たないのである。
 お品《しな》も恁《か》ういふ伴侶《なかま》の一人《ひとり》であつた。それが今日《けふ》は其《そ》の笑聲《せうせい》を後《あと》にして冷《つめ》たい土《つち》に歸《き》したのである。

         五

 お品《しな》は自分《じぶん》の手《て》で自分《じぶん》の身《み》を殺《ころ》したのである。お品《しな》は十九の暮《くれ》におつぎを産《う》んでから其《その》次《つぎ》の年《とし》にも亦《また》姙娠《にんしん》した。其《そ》の時《とき》は彼等《かれら》は窮迫《きうはく》の極度《きよくど》に達《たつ》して居《ゐ》たので其《そ》の胎兒《たいじ》は死《し》んだお袋《ふくろ》の手《て》で七月|目《め》に墮胎《だたい》して畢《しま》つた。それはまだ秋《あき》の暑《あつ》い頃《ころ》であつた。強健《きやうけん》なお品《しな》は四五|日《にち》經《た》つと林《はやし》の中《なか》で草刈《くさかり》をして居《ゐ》た。それでも無理《むり》をした爲《ため》に其《その》後《ご》大煩《おほわづら》ひはなかつたが恢復《くわいふく》するまでには暫《しばら》くぶら/\して居《ゐ》た。それからといふものはどういふものかお品《しな》は姙娠《にんしん》しなかつた。おつぎが十三の時《とき》與吉《よきち》が生《うま》れた。此《こ》の時《とき》は勘次《かんじ》もお品《しな》も腹《はら》の子《こ》を大切《たいせつ》にした。女《をんな》の子《こ》が十三といふともう役《やく》に立《た》つので、與吉《よきち》を育《そだ》てながら夫婦《ふうふ》は十|分《ぶん》に働《はたら》くことが出來《でき》た。與吉《よきち》が三つに成《な》つたのでおつぎは他《よそ》へ奉公《ほうこう》に出《だ》すことに夫婦《ふうふ》の間《あひだ》には決定《けつてい》された。其《そ》の頃《ころ》十五の女《をんな》の子《こ》では一|年《ねん》の給金《きふきん》は精々《せい/″\》十|圓《ゑん》位《ぐらゐ》のものであつた。それでもそれ丈《だけ》の收入《しうにふ》の外《ほか》に食料《しよくれう》の減《げん》ずることが貧乏《びんばふ》な世帶《しよたい》には非常《ひじやう》な影響《えいきやう》なのである。それが稻《いね》の穗首《ほくび》の垂《た》れる頃《ころ》からお品《しな》は思案《しあん》の首《くび》を傾《かし》げるやうになつた。身體《からだ》の容子《ようす》が變《へん》に成《な》つたことを心付《こゝろづ》いたからである。十|年《ねん》餘《あまり》も保《も》たなかつた腹《はら》は與吉《よきち》が止《とま》つてから癖《くせ》が附《つ》いたものと見《み》えて又《また》姙娠《にんしん》したのである。お品《しな》も勘次《かんじ》もそれには當惑《たうわく》した。おつぎを奉公《ほうこう》に出《だ》して畢《しま》へば、二人《ふたり》の子《こ》を抱《だ》いてお品《しな》は從來《これまで》のやうに働《はたら》くことが出來《でき》ない、僅《わづか》な稼《かせぎ》でもそれが停止《ていし》されることは彼等《かれら》の生活《せいくわつ》の爲《ため》には非常《ひじやう》な打撃《だげき》でなければならぬ。其《そ》の内《うち》に稻《いね》を刈《か》つたり、籾《もみ》を干《ほ》したり忙《いそが》しい收穫《しうくわく》の季節《きせつ》が來《き》て、冴《さ》えた空《そら》の下《した》に夫婦《ふうふ》は毎日《まいにち》埃《ほこり》を浴《あ》びて居《ゐ》た。有繋《さすが》に罪《つみ》なやうな心持《こゝろもち》もするので夫婦《ふうふ》は只《たゞ》困《こま》つて其《そ》の日《ひ》を過《すご》して居《ゐ》た。それも夜《よる》に成《な》つて疲《つか》れた身體《からだ》を横《よこ》にし甘睡《かんすゐ》に陷《おちい》るまでの少時間《せうじかん》彼等《かれら》は互《たがひ》に決《けつ》し難《がた》い思案《しあん》を交換《かうくわん》するのであつた。從來《これまで》も夫婦《ふうふ》の間《あひだ》は孰《いづ》れが本位《ほんゐ》であるか分《わか》らぬ程《ほど》勘次《かんじ》には決斷《けつだん》の力《ちから》が缺乏《けつばふ》して居《ゐ》た。
「どうでもおめえの腹《はら》だから好《す》きにした方《はう》がえゝやな」勘次《かんじ》は恁《か》ういふのである。然《しか》しそれは怎的《どう》でもいゝといふ云《い》ひ擲《なぐ》りではなくて、凡《すべ》てがお品《しな》に對《たい》して命令《めいれい》をするには勘次《かんじ》の心《こゝろ》は餘《あま》り憚《はばか》つて居《ゐ》たのである。
「そんでも、俺《おれ》がにも困《こま》んべな」お品《しな》は投《な》げ掛《か》けるやうにいふのである。勘次《かんじ》はお品《しな》が恁《か》うする積《つもり》だときつぱりいつて畢《しま》へば決《けつ》して反對《はんたい》をするのではない。といつてお品《しな》は獨斷《どくだん》で決行《けつかう》するのには餘《あま》り大事《だいじ》であつたのである。さうしてそれは決定《けつてい》される機會《きくわい》もなくて夫婦《ふうふ》は依然《いぜん》として農事《のうじ》に忙殺《ばうさつ》されて居《ゐ》た。
 其《そ》の間《あひだ》に空《そら》を渡《わた》る凩《こがらし》が俄《にはか》に哀《かな》しい音信《おどづれ》を齎《もたら》した。欅《けやき》の梢《こずゑ》は、どうでもう此《こ》れまでだといふやうに慌《あわたゞ》しく其《そ》の赭《あか》く成《な》つた枯葉《かれは》を地上《ちじやう》に投《な》げつけた。其《そ》の棄《す》て去《さ》られた輕《かろ》い小《ちひ》さな落葉《おちば》は、自分《じぶん》を引《ひ》き止《と》めて呉《く》れる蔭《かげ》を求《もと》めて轉々《ころ/\》と走《はし》つては干《ほ》した藁《わら》の間《あひだ》でも籾《もみ》の筵《むしろ》でも何處《どこ》でも其《そ》の身《み》を託《たく》した。周圍《あたり》は凡《すべ》てが只《たゞ》騷《さわ》がしく且《か》つ混雜《こんざつ》した。其《そ》の内《うち》に勘次《かんじ》は秋《あき》から募集《ぼしふ》のあつた開鑿工事《か
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