そりと酷《ひど》い窶《やつ》れやうをして居《ゐ》た。卯平《うへい》は只《たゞ》ぽつさりとしてそれを見《み》て居《ゐ》た。死體《したい》は復《また》其《そ》の穢《きたな》い夜具《やぐ》へ横《よこた》へられた。盥《たらひ》の汚《けが》れた微温湯《ぬるまゆ》は簀《す》の子《こ》の上《うへ》から土《つち》に注《そゝ》がれた。さうして其《そ》の沾《ぬ》れた簀《す》の子《こ》には捲《ま》くつた筵《むしろ》が又《また》敷《し》かれた。朝《あさ》から雨戸《あまど》は開《あ》け放《はな》たれて歩《ある》けばぎし/\と鳴《な》る簀《す》の子《こ》の上《うへ》の筵《むしろ》は草箒《くさばうき》で掃《は》かれた。さうして東隣《ひがしどなり》から借《か》りて來《き》た蓙《ござ》が五六|枚《まい》敷《し》かれた。それから土地《とち》の習慣《しふくわん》で勘次《かんじ》は淨《きよ》めてやつたお品《しな》の死體《したい》は一|切《さい》を近所《きんじよ》の手《て》に任《まか》せた。
 近所《きんじよ》の女房等《にようばうら》は一|反《たん》の晒木綿《さらしもめん》を半分《はんぶん》切《きつ》てそれで形《かた》ばかりの短《みじか》い經帷子《きやうかたびら》と死相《しさう》を隱《かく》す頭巾《づきん》とふんごみとを縫《ぬ》つてそれを着《き》せた。ふんごみは只《たゞ》三|角《かく》にして足袋《たび》の代《かはり》に爪先《つまさき》へ穿《は》かせるのであつた。脚絆《きやはん》は切《きれ》の儘《まゝ》麻《あさ》で足《あし》へ括《くゝ》り附《つ》けた。此《こ》れも其《そ》の木綿《もめん》で縫《ぬ》つた頭陀袋《づだぶくろ》を首《くび》から懸《か》けさせて三|途《づ》の川《かは》の渡錢《わたしせん》だといふ六|文《もん》の錢《ぜに》を入《い》れてやつた。髮《かみ》は麻《あさ》で結《むす》んで白櫛《しろぐし》を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]《さ》して遣《や》つた。お品《しな》の硬着《かうちやく》した身體《からだ》は曲《ま》げて立膝《たてひざ》にして棺桶《くわんをけ》へ入《い》れられた。首《くび》が葢《ふた》に觸《さは》るので骨《ほね》の挫《くぢ》けるまで抑《おさ》へつけられてすくみが掛《か》けられた。すくみといふのは蹙《ちゞ》めた儘《まゝ》の形《かたち》が保《たも》たれるやうに死體《したい》の下《した》から荒繩《あらなは》を廻《まは》して置《お》いて首筋《くびすぢ》の處《ところ》でぎつしりと括《くゝ》ることである。麁末《そまつ》な松板《まついた》で拵《こしら》へた出來合《できあひ》の棺桶《くわんをけ》はみり/\と鳴《な》つた。恁《か》ういふ無残《むざん》な扱《あつかひ》はどうしても他人《たにん》の手《て》に任《まか》せられねばならなかつた。板《いた》の儘《まゝ》ばら/\に成《な》つて居《ゐ》る棺臺《くわんだい》は買《か》つて來《き》てから近所《きんじよ》の手《て》で釘付《くぎづけ》にされた。其處《そこ》には淺《あさ》い箱《はこ》の倒《さかさ》にしたものが出來《でき》た。其《そ》の棺臺《くわんだい》の上《うへ》には死體《したい》を入《い》れた棺桶《くわんをけ》が載《の》せられた。
 勘次《かんじ》は其《その》朝《あさ》未明《みめい》にそつと家《いへ》の後《うしろ》の楢《なら》の木《き》の間《あひだ》を田《た》の端《はし》へおりて境木《さかひぎ》の牛胡頽子《うしぐみ》の傍《そば》を注意《ちうい》して見《み》た。唐鍬《たうぐは》か何《なに》かで動《うご》かした土《つち》の跡《あと》が目《め》に附《つ》いた。勘次《かんじ》は手《て》にして行《い》つた草刈鎌《くさかりがま》でそく/\と土《つち》をつゝくやうにして掘《ほ》つた。さうして其《その》軟《やはら》かに成《な》つた土《つち》を手《て》で浚《さら》つた。襤褸《ぼろ》の包《つゝみ》が出《で》た。彼《かれ》は其處《そこ》に小《ちひ》さな一|塊肉《くわいにく》を發見《はつけん》したのである。勘次《かんじ》はそれを大事《だいじ》に懷《ふところ》へ入《い》れた。惡事《あくじ》の發覺《はつかく》でも恐《おそ》れるやうな容子《ようす》で彼《かれ》は周圍《あたり》を見廻《みまは》した。彼《かれ》は更《さら》に古《ふる》い油紙《あぶらがみ》で包《つゝ》んで片付《かたづ》けて置《お》いて、お品《しな》の死體《したい》が棺桶《くわんをけ》に入《い》れられた時《とき》彼《かれ》はそつとお品《しな》の懷《ふところ》に抱《いだ》かせた。お品《しな》の痩《や》せ切《き》つた手《て》が勘次《かんじ》のする儘《まゝ》にそれを確乎《しつか》と抱《だ》き締《し》めて、其《そ》の骨《ほね》ばかりの頬《ほゝ》が、ぴつたりと擦《す》りつけられた。葬式《さうしき》の日《ひ》は赤口《しやくこう》といふ日《ひ》であつた。
 勘次《かんじ》は近所《きんじよ》と姻戚《みより》との外《ほか》には一|飯《ぱん》も出《だ》さなかつたがそれでも村《むら》のものは皆《みな》二|錢《せん》づゝ持《も》つて弔《くや》みに來《き》た。さうしてさつさと歸《かへ》つて行《い》つた。遠《とほ》く離《はな》れた寺《てら》からは住職《ぢうしよく》と小坊主《こばうず》とが、褪《さ》めた萠黄《もえぎ》の法被《はつぴ》を着《き》た供《とも》一人《ひとり》連《つ》れて挾箱《はさみばこ》を擔《かつ》がせて歩《ある》いて來《き》た。小坊主《こばうず》は直《すぐ》に棺桶《くわんをけ》の葢《ふた》をとつて白《しろ》い木綿《もめん》を捲《ま》くつて窶《やつ》れた頬《ほゝ》へ剃刀《かみそり》を一寸《ちよつと》當《あ》てた。此《こ》の形式的《けいしきてき》の顏剃《かほそり》が濟《す》んでから葢《ふた》は釘《くぎ》で打《う》ち附《つ》けられた。荒繩《あらなは》が十|文字《もんじ》に掛《か》けられた。晒木綿《さらしもめん》の残《のこ》つた半反《はんだん》でそれがぐる/\と捲《ま》かれた。桶《をけ》には更《さら》に天葢《てんがい》が載《の》せられた。天葢《てんがい》というても兩端《りやうたん》が蕨《わらび》のやうに捲《まか》れた狹《せま》い松板《まついた》を二|枚《まい》十|字《じ》に合《あは》せたまでのものに過《すぎ》ない簡單《かんたん》なものである。煤《すゝ》けた壁《かべ》には此《こ》れも古《ふる》ぼけた赤《あか》い曼荼羅《まんだら》の大幅《おほふく》が飾《かざり》のやうに掛《か》けられた。棺《くわん》は僅《わづか》な人《ひと》で葬《はうむ》られた。それでも白提灯《しろぢやうちん》が二張《ふたはり》翳《かざ》された。裂《さ》き竹《だけ》を格子《かうし》の目《め》に編《あ》んでいゝ加減《かげん》の大《おほ》きさに成《な》るとぐるりと四|方《はう》を一つに纏《まと》めて括《くゝ》つた花籠《はなかご》も二つ翳《かざ》された。孰《ど》れも青竹《あをだけ》の柄《え》が附《つ》けられた。其《そ》の籠《かご》へは髭《ひげ》のやうに裂《さ》き竹《だけ》を立《た》てゝ其《そ》の裂《さ》き竹《だけ》には赤《あか》や黄《き》や青《あを》や其《そ》の他《た》の色紙《いろがみ》で刻《きざ》んだ花《はな》を飾《かざ》つた。其《そ》の花籠《はなかご》は又《また》底《そこ》へ紙《かみ》を敷《し》いて死《し》んだものゝ年齡《とし》の數《かず》だけ小錢《こぜに》を入《い》れて、それを翳《かざ》した人《ひと》が時々《ときどき》ざら/\と振《ふ》つては籠《かご》の目《め》から其《そ》の小錢《こぜに》を振《ふ》り落《おと》した。村《むら》の小供《こども》が爭《あらそ》つてそれを拾《ひろ》つた。提灯《ちやうちん》と花籠《はなかご》は先《さき》に立《た》つた。後《あと》からは村《むら》の念佛衆《ねんぶつしう》が赤《あか》い胴《どう》の太皷《たいこ》を首《くび》へ懸《か》けてだらりだらりとだらけた叩《たゝ》きやうをしながら一|同《どう》に聲《こゑ》を擧《あげ》て跟《つ》いて行《い》つた。柩《ひつぎ》は小徑《こみち》を避《さ》けて大道《わうらい》を行《い》つた。村《むら》の者《もの》は自分《じぶん》の門《かど》からそれを覗《のぞ》いた。棺桶《くわんをけ》は据《すわ》りが惡《わる》い所爲《せゐ》か途中《とちう》で止《や》まずぐらり/\と動搖《どうえう》した。勘次《かんじ》はそれでも羽織《はおり》袴《はかま》で位牌《ゐはい》を持《も》つた。それは皆《みな》借《か》りたので羽織《はおり》の紐《ひも》には紙撚《こより》がつけてあつた。
 墓《はか》の穴《あな》は燒《や》けた樣《やう》な赤土《あかつち》が四|方《はう》へ堆《うづたか》く掻《か》き上《あ》げられてあつた。其處《そこ》には從來《これまで》隙間《すきま》のない程《ほど》穴《あな》が掘《ほ》られて、幾多《いくた》の人《ひと》が埋《うづ》められたので手《て》の骨《ほね》や足《あし》の骨《ほね》がいつものやうに掘《ほ》り出《だ》されて投《な》げられてあつた。法被《はつぴ》を着《き》た寺《てら》の供《とも》が棺桶《くわんをけ》を卷《ま》いた半反《はんだん》の白木綿《しろもめん》をとつて挾箱《はさんばこ》に入《いれ》た。軈《やが》て棺桶《くわんをけ》は荒繩《あらなは》でさげて其《そ》の赤《あか》い土《つち》の底《そこ》に踏《ふ》みつけられた。麁末《そまつ》な棺臺《くわんだい》は少《すこ》し堆《うづたか》く成《な》つた土《つち》の上《うへ》に置《お》かれて、二《ふた》つの白張提灯《しらはりちやうちん》と二《ふた》つの花籠《はなかご》とが其《その》傍《そば》に立《た》てられた。お品《しな》は生來《せいらい》土《つち》を踏《ふ》まない日《ひ》はないといつていゝ位《ぐらゐ》であつた。さうしてそれは凍《い》てる冬《ふゆ》の季節《きせつ》を除《のぞ》いては大抵《たいてい》は直接《ちよくせつ》に足《あし》の底《そこ》が土《つち》について居《ゐ》た。お品《しな》は恁《かう》して冷《つめ》たい屍《かばね》に成《な》つてからも其《そ》の足《あし》の底《そこ》は棺桶《くわんをけ》の板《いた》一|枚《まい》を隔《へだ》てただけで更《さら》に永久《えいきう》に土《つち》と相《あひ》接《せつ》して居《ゐ》るのであつた。
 小《ちひ》さな葬式《さうしき》ながら柩《ひつぎ》が出《で》た後《あと》は旋風《つむじかぜ》が埃《ほこり》を吹《ふ》つ拂《ぱら》つた樣《やう》にからりとして居《ゐ》た。手傳《てつだひ》に來《き》て居《ゐ》た女房等《にようばうら》はそれでなくても膳立《ぜんだて》をする客《きやく》が少《すくな》くて暇《ひま》であつたから滅切《めつきり》手持《てもち》がなくなつた。それでも立《た》ちながら椀《わん》と箸《はし》とを持《も》つて口《くち》を動《うご》かして居《ゐ》るものもあつた。膳部《ぜんぶ》は極《きま》つた通《とほ》り皿《さら》も平《ひら》も壺《つぼ》もつけられた。それでも切昆布《きりこぶ》と鹿尾菜《ひじき》と油揚《あぶらげ》と豆腐《とうふ》との外《ほか》は百姓《ひやくしやう》の手《て》で作《つく》つたものばかりで料理《れうり》された。皿《さら》には細《こま》かく刻《きざ》んで鹽《しほ》で揉《も》んだ大根《だいこ》と人參《にんじん》との膾《なます》がちよつぽりと乘《の》せられた。さういふ残物《のこりもの》と冷《つめ》たく成《な》つた豆腐汁《とうふじる》とをつゝいても麥《むぎ》の交《まじ》らぬ飯《めし》が其《そ》の口《くち》には此《こ》の上《うへ》もない滋味《じみ》なので、女房等《にようばうら》は其《そ》の強健《きやうけん》で且《かつ》擴大《くわくだい》された胃《ゐ》の容《い》れる限《かぎ》りは口《くち》が之《これ》を貪《むさぼ》つて止《や》まないのである。彼等《かれら》は裏戸《うらど》の陰《かげ》に聚《あつ》まつて雜談《ざつだん》に耽《ふけ》つた。
「どうしたつけまあ、酷《ひど》く棺桶《くわんをけ》
前へ 次へ
全96ページ中11ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
長塚 節 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング