居《ゐ》たならば彼《かれ》は其《そ》の時《とき》自分《じぶん》が欲《ほつ》したやうに冷《つめ》たい骸《むくろ》から蘇生《よみがへ》らなかつたかも知《し》れなかつた。勘次《かんじ》の冴《さ》えた目《め》が隙間《すきま》から射《さ》す白《しろ》い雪《ゆき》の光《ひかり》に欺《あざむ》かれておつぎを水汲《みづく》みに出《だ》した。さうして卯平《うへい》は救《すく》はれたのである。
「爺《ぢい》どうした、心持《こゝろもち》惡《わる》かねえか、はあ」とおつぎは卯平《うへい》が周圍《あたり》を見《み》た時《とき》耳《みゝ》へ口《くち》を當《あ》てゝいつた。
「動《いご》かねえでろ爺《ぢい》、喰《た》べてえ物《もの》でもねえか」おつぎは復《ま》た軟《やはら》かにいつた。卯平《うへい》は只《たゞ》點頭《うなづ》いた。
「おとつゝあ、そんでもちつた確乎《しつかり》してか」勘次《かんじ》は其《そ》の尾《を》に跟《つ》いて聞《き》いた。ほつと息《いき》をついたやうな容子《ようす》は勘次《かんじ》の衷心《ちうしん》からの悦《よろこ》びであつた。
「おとつゝあ、火傷《やけど》は痛《えて》えけまあだ」勘次《かんじ》は直《すぐ》に後《あと》の言辭《ことば》を續《つゞ》けた。
「枕《まくら》はおつゝけらんねえな」卯平《うへい》は軟《やはら》かな目《め》を蹙《しが》めるやうにした。
 勘次《かんじ》はふいと駈《か》け出《だ》して暫《しばら》く經《た》つて歸《かへ》つて來《き》た時《とき》には手《て》に白《しろ》い曝木綿《さらしもめん》の古新聞紙《ふるしんぶんがみ》の切端《きれはし》に包《つゝ》んだのを持《も》つて居《ゐ》た。彼《かれ》はそれを四つに裂《さ》いて、醫者《いしや》がしたやうに白《しろ》い練藥《ねりぐすり》を腿《もゝ》の上《うへ》でガーゼへ塗《ぬ》つて、卯平《うへい》の横頬《よこほゝ》へ貼《は》つた曝木綿《さらしもめん》でぐる/\と卷《ま》いた。彼《かれ》は與吉《よきち》にさへ白《しろ》い藥《くすり》を惜《を》しんで醫者《いしや》から貰《もら》つた儘《まゝ》藏《しま》つて置《お》いたのであつた。卯平《うへい》は凝然《ぢつ》として勘次《かんじ》の爲《す》る儘《まゝ》に任《まか》せた。不器用《ぶきよう》な少《すこ》し動《うご》けば轉《こ》け相《さう》な繃帶《ほうたい》であつたが夫《それ》でも勘次《かんじ》の目《め》には心丈夫《こゝろじやうぶ》であつた。彼《かれ》は自分《じぶん》の恐怖《おそれ》を誘《さそ》うた瘡痍《きず》が白《しろ》い快《こゝろ》よい布《ぬの》を以《もつ》て掩《おほ》ひ隱《かく》されたのと、自分《じぶん》の爲《す》べき仕事《しごと》を果《はた》し得《え》たやうに感《かん》ぜられるのとで心《こゝろ》が俄《にはか》に輕《かる》くすが/\しくなつた。卯平《うへい》もどうなることか確《しか》とは分《わか》らぬながら心《こゝろ》の内《うち》では悦《よろこ》んだ。
 勘次《かんじ》は又《また》何處《どこ》へか出《で》た。彼《かれ》は只《たゞ》心《こゝろ》がそは/\として容易《たやす》くは落《おち》つかなかつた。
 軟《やはら》かな春《はる》の光《ひかり》は情《なさけ》を含《ふく》んだ目《め》を瞬《またゝ》きしながら彼《かれ》の狹《せま》い小屋《こや》をこまやかに萱《かや》や篠《しの》の隙間《すきま》から覗《のぞ》いて卯平《うへい》の裾《すそ》にも偃《は》つた。卯平《うへい》は暫《しばら》く目《め》を瞑《つぶ》つた儘《まゝ》で居《ゐ》たが復《ま》たぱつちりと目《め》を開《あ》いた。側《そば》にはおつぎが坐《すわ》つて居《ゐ》た。
「おつう」と卯平《うへい》は低《ひく》い聲《こゑ》で喚《よ》んだ。
「何《なん》でえ」おつぎは又《また》耳《みゝ》へ口《くち》を當《あ》てた。卯平《うへい》は右《みぎ》の手《て》を出《だ》して蒲團《ふとん》の上《うへ》へ伸《のば》して
「熱《あつ》ぼつてえから一|枚《めえ》とつてくんねえか」力《ちから》ない縋《すが》るやうな聲《こゑ》でいつた。
「本當《ほんたう》に暖《ぬくと》く成《な》つたんだよなあ日輪《おてんとさま》まで酷《ひど》く眩《まちつ》ぽくなつたやうなんだよ」おつぎは例《れい》の少《すこ》し甘《あま》えるやうな口吻《くちつき》で一|枚《まい》の掛蒲團《かけぶとん》をとつた。
「此《こ》の蒲團《ふとん》は板《いた》ツ端《ぱち》見《み》てえなんだよなあ、此《こ》れとつた方《はう》が爺《ぢい》は輕《かる》く成《な》つてよかつぺなほんに、さう云《ゆ》つても暖《ぬくと》くなるつちやえゝもんだよ、俺《お》ら作日等《きのふら》見《み》てえぢやどうすべと思《おも》つたつきや」おつぎは掛蒲團《かけぶとん》を四《よ》つにして卯平《うへ
前へ 次へ
全239ページ中233ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
長塚 節 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング