ける北風《きたかぜ》を當面《まとも》に受《う》けて呼吸《いき》がむつとつまるやうに感《かん》じてふと横手《よこて》を向《む》いた。少《すこ》し離《はな》れた※[#「柿」の正字、第3水準1−85−57]《かき》の木《き》の下《した》におつぎは吸《す》ひつけられたやうに疑《うたが》ひの目《め》を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》つた。おつぎは釣瓶《つるべ》を放《はな》して少《すこ》し※[#「柿」の正字、第3水準1−85−57]《かき》の木《き》の下《した》に近《ちか》づいた。
「おとつゝあ」とおつぎは底《そこ》の粘《ねば》る草履《ざうり》を捨《す》てゝ激《はげ》しく呼《よ》んで驅《か》け込《こ》んだ。
「大變《たえへん》だよ、おとつゝあ」と今度《こんど》は少《すこ》し聲《こゑ》を殺《ころ》すやうにして勘次《かんじ》を促《うなが》した。勘次《かんじ》は怪訝《けげん》な鋭《するど》い目《め》を以《もつ》ておつぎを見《み》た。
「よう、おとつゝあ」おつぎの節制《たしなみ》を失《うしな》つた慌《あわたゞ》しさが勘次《かんじ》を庭《には》に走《はし》らせた。勘次《かんじ》は戰慄《せんりつ》した。※[#「柿」の正字、第3水準1−85−57]《かき》の木《き》の下《した》には冷《つめ》たい卯平《うへい》が横《よこ》たはつて居《ゐ》たのである。其《その》大《おほ》きな體躯《からだ》は少《すこ》し※[#「柿」の正字、第3水準1−85−57]《かき》の木《き》に倚《よ》り掛《かゝ》りながら、胸《むね》から脚部《きやくぶ》へ斑《まだら》に雪《ゆき》を浴《あ》びて居《ゐ》た。荒繩《あらなは》が彼《かれ》の手《て》を轉《こ》けて横《よこ》に體躯《からだ》を超《こ》えて居《ゐ》た。
「爺《ぢい》」とおつぎは其《そ》の耳《みゝ》に口《くち》を當《あ》てゝ呶鳴《どな》つた。冷《つめ》たい卯平《うへい》はぐつたりと俛首《うなだ》れた儘《まゝ》である。少《すこ》し傾《かし》げた彼《かれ》の横頬《よこほゝ》に糜爛《びらん》した火傷《やけど》が勘次《かんじ》を悚然《ぞつ》とさせた。勘次《かんじ》は夜《よる》荷車《にぐるま》で運《はこ》んだ後《のち》卯平《うへい》を見《み》るのは始《はじ》めてゞあつた
「おとつゝあは、どうしたつちんだんべな」おつぎは勘次《かんじ》を叱《しか》つて、卯平《うへい》の身體《からだ》を起《おこ》しながら白《しろ》く掛《かゝ》つた雪《ゆき》を手《て》で拂《はら》つた。勘次《かんじ》は怖《お》づ/\手《て》を藉《か》した。卯平《うへい》の力《ちから》ない身體《からだ》は漸《やうや》く二人《ふたり》の手《て》で運《はこ》ばれた。勘次《かんじ》は簀《す》の子《こ》の上《うへ》の筵《むしろ》に横《よこた》へて、喪心《さうしん》したやうに惘然《ばうぜん》として立《た》つた。彼《かれ》は復《ま》た卯平《うへい》の糜爛《びらん》した火傷《やけど》を見《み》た。彼《かれ》は何《なに》を思《おも》つたか忙《いそが》しく雪《ゆき》を蹴立《けた》てゝ、桑畑《くはばたけ》の間《あひだ》を過《す》ぎて南《みなみ》の家《いへ》に走《はし》つた。一|旦《たん》開《あ》けて又《また》そつと閉《とざ》した表《おもて》の戸口《とぐち》から突然《とつぜん》に
「起《お》きめえか」と彼《かれ》は激《はげ》しく呶鳴《どな》つた。彼《かれ》は褞袍《どてら》を着《き》て竈《かまど》の前《まへ》に火《ひ》を焚《た》いて居《ゐ》る女房《にようばう》を見《み》た。
「何《なん》でえ」と亭主《ていしゆ》の驚《おどろ》いていふ聲《こゑ》が近《ちか》く聞《きこ》えた。勘次《かんじ》も驚《おどろ》いて上《あが》り框《がまち》の蒲團《ふとん》から首《くび》を擡《もた》げた亭主《ていしゆ》を見《み》た。
「大變《たえへん》なこと出來《でき》たよ、俺《お》ら家《ぢ》の」と勘次《かんじ》はこそつぱい喉《のど》から漸《やうや》くそれだけを吐《は》き出《だ》した。
「來《き》てくんねえか」と彼《かれ》は簡單《かんたん》にさういつて、思《おも》ひ出《だ》したやうに又《また》雪《ゆき》を蹴《け》つて走《はし》つた。慌《あわ》てた彼《かれ》は閾《しきゐ》も跨《またが》なかつた。南《みなみ》の家《いへ》の亭主《ていしゆ》は勘次《かんじ》の容子《ようす》を見《み》て尋常《じんじやう》でないことを知《し》つた。然《しか》しながら彼《かれ》は極《きは》めて不判明《ふはんめい》な事件《じけん》に赴《おもむ》くには、直《たゞち》に起《おこ》る多少《たせう》の懸念《けねん》が吹《ふ》き捲《まく》る雪《ゆき》に逆《さから》つて、蓑《みの》も笠《かさ》も持《も》たずに走《はし》つて行《ゆ》く程《ほど》慌《あわ》てさせる譯《わ
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