た》へぬ鍋《なべ》や釜《かま》は彼《かれ》の更《さら》に狹《せま》い土間《どま》に徒《いたづ》らに場所《ばしよ》を塞《ふさ》げて居《ゐ》た。其《そ》の土間《どま》にはまだ簡單《かんたん》な圍爐裏《ゐろり》さへなくて、彼《かれ》は火《ひ》を焚《た》くのに三|本脚《ぼんあし》の竹《たけ》を立《た》てゝそれへ藥鑵《やくわん》を掛《か》けた。
おつぎは只《たゞ》勘次《かんじ》の仕事《しごと》を幇《たす》けて居《ゐ》た。然《しか》し其《そ》の間《あひだ》にも念佛寮《ねんぶつれう》へ運《はこ》ばれた卯平《うへい》を忘《わす》れては居《ゐ》なかつた。おつぎは火事《くわじ》の次《つぎ》の日《ひ》に勘次《かんじ》へは默《だま》つて念佛寮《ねんぶつれう》を覗《のぞ》いて見《み》た。おつぎは卯平《うへい》へ目《め》に見《み》えた心盡《こゝろづくし》をするのに何《なん》の方法《はうはふ》も見出《みいだ》し得《え》なかつた。おつぎの懷《ふところ》には一|錢《せん》もないのである。おつぎは手桶《てをけ》の底《そこ》の凍《こほ》つた握飯《にぎりめし》を燒趾《やけあと》の炭《すみ》に火《ひ》を起《おこ》して狐色《きつねいろ》に燒《や》いてそれを二つ三つ前垂《まへだれ》にくるんで行《い》つて見《み》た。おつぎはこつそりと覗《のぞ》くやうにして見《み》た。卯平《うへい》は誰《たれ》がさうしてくれたか唯《たゞ》一人《ひとり》で蒲團《ふとん》にゆつくりとくるまつて居《ゐ》た。枕元《まくらもと》には小《ちひ》さな鍋《なべ》と膳《ぜん》とが置《お》かれて、膳《ぜん》には茶碗《ちやわん》が伏《ふ》せてある。汁椀《しるわん》は此《こ》れも小皿《こざら》を掩《おほ》うて伏《ふ》せてある。卯平《うへい》は窶《やつ》れた蒼《あを》い顏《かほ》をこちらへ向《む》けて居《ゐ》た。彼《かれ》は眠《ねむ》つて居《ゐ》た。おつぎはすや/\と聞《きこ》える呼吸《いき》に凝然《ぢつ》と耳《みゝ》を澄《すま》した。おつぎはそれから枕元《まくらもと》の鍋蓋《なべぶた》をとつて見《み》た。鍋《なべ》の底《そこ》には白《しろ》いどろりとした米《こめ》の粥《かゆ》があつた。汁椀《しるわん》をとつて見《み》たら小皿《こざら》には醤《ひしほ》が少《すこ》し乘《の》せてあつた。卯平《うへい》は冷《さ》めた白粥《しろがゆ》へまだ一口《ひとくち》も箸《はし》をつけた容子《ようす》がない。おつぎは燒《や》いた握飯《にぎりめし》を一つ枕元《まくらもと》にそつと置《お》いて遁《に》げるやうに歸《かへ》つて來《き》た。老人《としより》の敏《さと》い目《め》が到頭《たうとう》開《ひら》かなかつた。卯平《うへい》は疲《つか》れた心《こゝろ》が靜《しづ》まつて漸《やうや》く熟睡《じゆくすゐ》した處《ところ》なのであつた。
掘立小屋《ほつたてごや》が出來《でき》てから勘次《かんじ》はそれでも近所《きんじよ》で鍋《なべ》や釜《かま》や其《そ》の他《た》の日用品《にちようひん》を少《すこ》しは貰《もら》つたり借《か》りたりして使《つか》つた。おつぎは其《そ》の間《あひだ》一|心《しん》に燒《や》けた鍋釜《なべかま》を砥石《といし》でこすつた。竹《たけ》の床《とこ》へ數《し》く筵《むしろ》が三四|枚《まい》、此《これ》も近所《きんじよ》で古《ふる》いのを一|枚《まい》位《ぐらゐ》づつ呉《く》れた。さうしてから漸《やうや》く蒲團《ふとん》が運《はこ》ばれた。それは彼《かれ》がぎつしりと腰《こし》に括《くゝ》つた財布《さいふ》の力《ちから》であつた。米《こめ》や麥《むぎ》や味噌《みそ》がそれでどうにか工夫《くふう》が出來《でき》た。彼《かれ》は斯《か》うして命《いのち》を繼《つな》ぐ方法《はうはふ》が漸《やつ》と立《た》つた。二三|日《にち》過《す》ぎて與吉《よきち》の火傷《やけど》は水疱《すゐはう》が破《やぶ》れて死《し》んだ皮膚《ひふ》の下《した》が少《すこ》し糜爛《びらん》し掛《か》けた。勘次《かんじ》は心《こゝろ》から漸《やうや》く其《そ》の瘡痍《きず》を勦《いたは》つた。彼《かれ》は平生《いつも》になくそれを放任《うつちや》つて置《お》けば生涯《しやうがい》の畸形《かたわ》に成《な》りはしないかといふ憂《うれひ》をすら懷《いだ》いた。さうして彼《かれ》は鬼怒川《きぬがは》を越《こ》えて醫者《いしや》の許《もと》に與吉《よきち》を連《つ》れて走《はし》つた。醫者《いしや》は微笑《びせう》を含《ふく》んだ儘《まゝ》白《しろ》いどろりとした藥《くすり》を陶製《たうせい》の板《いた》の上《うへ》で練《ね》つて、それをこつてりとガーゼに塗《ぬ》つて、火傷《やけど》を掩《おほ》うてべたりと貼《はつ》てぐる/\と白《しろ》い繃帶《ほうたい
前へ
次へ
全239ページ中223ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
長塚 節 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング