つ》さに堪《た》へぬ火《ひ》の側《そば》を彼《かれ》は飛《と》び退《すさ》つて又《また》立《た》つた。彼《かれ》は其《そ》の刃先《はさき》の鈍《にぶ》く成《な》るのを思《おも》ふ暇《いとま》もなく唐鍬《たうぐは》で、また立《た》つて居《ゐ》る木材《もくざい》を引《ひ》つ掛《か》けて倒《たふ》さうとした。
 おつぎは後《おく》れて漸《やうや》く垣根《かきね》の入口《いりくち》に立《た》つた。おつぎはもう自分《じぶん》の家《うち》が無《な》いことを知《し》つた。貧窮《ひんきう》な生活《せいくわつ》の間《あひだ》から數年來《すうねんらい》漸《やうや》く蓄《たくは》へた衣類《いるゐ》の數點《すうてん》が既《すで》に其《そ》の一|片《ぺん》をも止《とゞ》めないことを知《し》つてさうして心《こゝろ》に悲《かな》しんだ。汗《あせ》がびつしりと髮《かみ》の生際《はえぎは》を浸《ひた》して疲憊《ひはい》した身體《からだ》をおつぎは少時《しばし》惘然《ぼんやり》と庭《には》に立《た》てた。
 おつぎはそれから又《また》泣《な》いて居《ゐ》る與吉《よきち》と死骸《しがい》の如《ごと》く横《よこた》はつて居《ゐ》る卯平《うへい》とを見《み》た。おつぎは萬能《まんのう》を置《お》いて與吉《よきち》の火傷《やけど》した頭部《とうぶ》をそつと抱《いだ》いた。與吉《よきち》は復《また》涙《なみだ》がこみあげて咽《むせ》びながらしみ/″\と悲《かな》しげに泣《な》いた。其《そ》の聲《こゑ》は聞《き》くものを只《たゞ》泣《な》きたくさせた。疲《つか》れたおつぎの目《め》にはふつと涙《なみだ》が泛《うか》んだ。おつぎは又《また》手《て》で抑《おさ》へた卯平《うへい》の頭部《とうぶ》に疑《うたが》ひの目《め》を注《そゝ》いで、二|人《にん》の悲《かな》しむべき記念《かたみ》におもひ至《いた》つた。おつぎは其《そ》の原因《げんいん》を追求《つゐきう》して聞《き》かうとはしなかつた。おつぎはしみ/″\と與吉《よきち》を心《こゝろ》に勦《いたは》つて更《さら》に、「爺《ぢい》」と卯平《うへい》の蓆《むしろ》に近《ちか》づいてそつと膝《ひざ》をついた。平生《いつも》のおつぎは勘次《かんじ》との間《あひだ》を繋《つな》がうとする苦心《くしん》からの甘《あま》えた言辭《ことば》が卯平《うへい》の心《こゝろ》に投《とう》ずるのであつた。現在《いま》おつぎの心裏《しんり》には何《なん》の理窟《りくつ》もなかつた。只《たゞ》しみ/″\と悲《かな》しい痛《いた》はしい心《こゝろ》からの言辭《ことば》が自然《しぜん》に其《そ》の口《くち》から出《で》るのであつた。おつぎは未《ま》だ燃《も》えてる火《ひ》を忘《わす》れたやうに卯平《うへい》を越《こ》えて覗《のぞ》いた。卯平《うへい》はおつぎの聲《こゑ》が耳《みゝ》に入《はひ》つたので後《うしろ》を向《む》かうとして僅《わづか》に目《め》を開《あ》いた。地《ち》を掠《かす》つて走《はし》りつゝある埃《ほこり》が彼《かれ》の頬《ほゝ》を打《う》つて彼《かれ》の横《よこ》たへた身體《からだ》を越《こ》えた。彼《かれ》は直《すぐ》に以前《もと》の如《ごと》く目《め》を閉《と》ぢた。
「爺《ぢい》も火傷《やけど》したのか」おつぎは靜《しづか》にいつて卯平《うへい》の手《て》をそつと退《の》けて左《ひだり》の横頬《よこほゝ》に印《いん》した火傷《やけど》を見《み》た。
「痛《え》てえか、そんでもたえしたこともねえから心配《しんぺえ》すんなよ」おつぎは火《ひ》に薙《な》ぎ拂《はら》はれた穢《きたな》い卯平《うへい》の白髮《しらが》へそつと手《て》を當《あて》た。卯平《うへい》はおつぎのする儘《まゝ》に任《まか》せて少《すこ》し口《くち》を動《うご》かすやうであつたが、又《また》ごつと吹《ふ》きつける疾風《しつぷう》に妨《さまた》げられた。おつぎは隣《となり》の庭《には》の騷擾《さうぜう》を聞《き》いた。然《しか》も其《その》種々《いろ/\》な叫《さけ》びの錯雜《さくざつ》して聞《きこ》える聲《こゑ》が自分《じぶん》の心部《むね》から或《ある》物《もの》を引《ひ》つ攫《つか》んで行《ゆ》くやうで、自然《しぜん》にそれへ耳《みゝ》を澄《すま》すと何《なん》だか遣《や》る瀬《せ》のないやうな果敢《はか》なさを感《かん》じて涙《なみだ》が落《お》ちた。涙《なみだ》は卯平《うへい》の白髮《しらが》に滴《したゝ》つた。おつぎが心《こゝろ》づいた時《とき》勘次《かんじ》は徒《いたづ》らにさうして發作的《ほつさてき》に汗《あせ》を垂《た》らして動《うご》いて居《ゐ》るのを見《み》た。おつぎの心《こゝろ》も屹《きつ》として未《ま》だ燃《も》えつゝある火《ひ》に移《うつ》
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