つた。おつぎは俄《にはか》に自分《じぶん》の萬能《まんのう》を執《と》つて勘次《かんじ》の手《て》に攫《つか》ませた。勘次《かんじ》は始《はじ》めて心《こゝろ》づいて、熱《ねつ》した唐鍬《たうぐは》を冷《ひや》さうとして井戸端《ゐどばた》へ走《はし》つた。鍵《かぎ》の手《て》を離《はな》れた釣瓶《つるべ》は高《たか》く空中《くうちう》に浮《うか》んでゆつくりと大《おほ》きく動《うご》いて居《ゐ》た。彼《かれ》は流《なが》し尻《じり》にずぶりと唐鍬《たうぐは》を投《とう》じて又《また》萬能《まんのう》を執《と》つた。
一|日《にち》吹《ふ》いた疾風《しつぷう》が礑《はた》と其《そ》の力《ちから》を落《おと》したら、日《ひ》が西《にし》の空《そら》の土手《どて》のやうな雲《くも》の端《はし》に近《ちか》く据《すわ》つて漸次《だん/\》に沒却《ぼつきやく》しつゝ瞬《またゝ》いた。其《そ》の一|瞬時《しゆんじ》強烈《きやうれつ》な光《ひかり》が横《よこ》に東《ひがし》の森《もり》の喬木《けうぼく》を錆《さび》た橙色《だい/″\いろ》に染《そ》めて、更《さら》に其《そ》の光《ひかり》は隙間《すきま》を遠《とほ》くずつと手《て》を伸《のば》した。冷《つめ》たく且《かつ》薄闇《うすぐら》く成《な》るに從《したが》つて燒趾《やけあと》の火《ひ》が周圍《しうゐ》を明《あか》るくした。隣《となり》の火《ひ》はほんのりと空《そら》をぼかした。隣《となり》の庭《には》には自分《じぶん》の村落《むら》から他《た》の村落《むら》から手桶《てをけ》や飯臺《はんだい》へ入《い》れた握《にぎ》り飯《めし》が數多《かずおほ》く運《はこ》ばれた。消防《せうばう》に力《ちから》を竭《つく》した群集《ぐんしふ》は白《しろ》い握飯《にぎりめし》を貪《むさぼ》つた。群集《ぐんしふ》は更《さら》に時分《じぶん》を見計《みはか》らつてはぐら/\と柱《はしら》を突《つ》き倒《たふ》さうとした。丈夫《ちやうぶ》な柱《はしら》はまだ火勢《くわせい》があたりを遠《とほ》ざけて確乎《しつか》と立《た》つて居《ゐ》た。他《た》の村落《むら》の人々《ひと/″\》は漸次《だんだん》に歸《かへ》り去《さ》つた。自村《むら》の人々《ひと/″\》は交代《かうたい》に残《のこ》つて熾《さかん》な火《ひ》の番《ばん》をした。歸《かへ》り行《ゆ》く人々《ひと/″\》が其《そ》の序《ついで》に勘次《かんじ》の庭《には》に挨拶《あいさつ》に立《た》つたのみで、南《みなみ》の家《いへ》から笊《ざる》へ入《い》れた握飯《にぎりめし》が來《き》た丈《だけ》であつた。彼《かれ》はそれでも其《そ》の爲《ため》に空腹《くうふく》を遁《のが》れた。隣《となり》の主人《しゆじん》からは暫《しばら》くして其《そ》の集《あつま》つた握《にぎ》り飯《めし》の手桶《てをけ》を二つ三つ持《も》たせてよこした。夜《よ》に成《な》つてから近所《きんじよ》の者《もの》の手《て》で卯平《うへい》は念佛寮《ねんぶつれう》へ運《はこ》ばれた。勘次《かんじ》は卯平《うへい》を乘《の》せた荷車《にぐるま》を曳《ひ》いた。彼《かれ》はそれから隣《となり》の主人《しゆじん》へ挨拶《あいさつ》に出《で》たが、自分《じぶん》の喉《のど》の底《そこ》で物《もの》をいうて逃《に》げるやうに歸《かへ》つた。彼《かれ》は其《そ》の夜《よ》は三|人《にん》が凍《こほ》つた空《そら》を戴《いたゞ》いて燒趾《やけあと》の火氣《くわき》を手頼《たよ》りに明《あ》かした。卯平《うへい》を横《よこた》へた筵《むしろ》は誰《たれ》も取《と》りには來《こ》なかつた。筵《むしろ》は三|人《にん》に席《せき》を與《あた》へた。勘次《かんじ》は失火《しつくわ》に就《つ》いて與吉《よきち》から要領《えうりやう》を得《え》なかつた。然《しか》しながら彼《かれ》の悲憤《ひふん》に堪《た》へぬ心《こゝろ》が嘖《さいな》まうとするには與吉《よきち》の泣《な》いて止《や》まぬ火傷《やけど》がそれを抑《おさ》へつけた。勘次《かんじ》は疲《つか》れた。
二六
夜《よ》が深《ふ》けるに隨《したが》つて霜《しも》は三|人《にん》の周圍《しうゐ》に密接《みつせつ》して凝《こ》らうとしつゝ火《ひ》の力《ちから》をすら壓《お》しつけた。彼等《かれら》は冷《さ》めて行《ゆ》く火《ひ》に段々《だん/\》と筵《むしろ》を近《ちか》づけた。勘次《かんじ》もおつぎも薄《うす》い仕事衣《しごとぎ》にしん/\と凍《こほ》る霜《しも》の冷《つめ》たさと、ぢり/\と焦《こが》すやうな火《ひ》の熱《あつ》さとを同時《どうじ》に感《かん》じた。與吉《よきち》は火傷《やけど》へ夜《よ》の冷《つめ》たさが沁《し
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