み》えなかつた。他《た》の村落《むら》の人々《ひと/″\》が聞《き》き傳《つた》へて田圃《たんぼ》や林《はやし》を越《こ》えて、其《そ》の間《あひだ》に各自《かくじ》の體力《たいりよく》を消耗《せうまう》しつゝ驅《か》けつけるまでには大《おほ》きな棟《むね》は熱火《ねつくわ》を四|方《はう》に煽《あふ》つて落《お》ちた。疾風《しつぷう》の力《ちから》が此《こ》れを壓《お》しつけて、周圍《しうゐ》の喬木《けうぼく》の梢《こずゑ》が他《た》と隔《へだ》てゝ白晝《はくちう》の力《ちから》が其《そ》の光《ひかり》を奪《うば》はうとして居《ゐ》るので、空《そら》に立《た》つて見《み》えるのは遠《とほ》いやうで且《か》つ近《ちか》いやうで一|種《しゆ》の凄慘《せいさん》な氣《き》を含《ふく》んだ煙《けぶり》である。それでも喬木《けうぼく》の梢《こずゑ》の上《うへ》に火《ひ》は壓迫《あつぱく》に苦《くるし》んで居《ゐ》るやうに稀《まれ》に立《た》ち騰《のぼ》つては又《また》壓《おし》つけられた。徒勞《むだ》である喞筒《ポンプ》へ群集《ぐんしふ》は水《みづ》を汲《く》むのに近所《きんじよ》の有《あら》ゆる井戸《ゐど》は皆《みな》釣瓶《つるべ》が屆《とゞ》かなくなつた。群集《ぐんしふ》は唯《たゞ》囂々《がう/\》として混亂《こんらん》した響《ひゞき》の中《なか》に騷擾《さうぜう》を極《きは》めた。火《ひ》の力《ちから》は此《かく》の如《ごと》くにして周圍《しうゐ》の村落《そんらく》をも一つに吸收《きふしう》した。然《しか》しながら、其《そ》の群集《ぐんしふ》は勘次《かんじ》の庭《には》を顧《かへり》みようとはしなかつた。
 黄褐色《くわうかつしよく》の霧《きり》を以《もつ》て四|圍《ゐ》を塞《ふさ》がれつゝ只管《ひたすら》に其《そ》の唐鍬《たうぐは》を打《う》つて居《ゐ》た勘次《かんじ》は田圃《たんぼ》を渡《わた》つて林《はやし》を越《こ》えて遠《とほ》く行《い》つて居《ゐ》た。彼《かれ》は此《こ》の凶事《きようじ》を知《し》る理由《わけ》がなかつた。開墾地《かいこんち》に近《ちか》い小徑《こみち》を走《はし》つて行《ゆ》く人《ひと》の慌《あわたゞ》しい容子《ようす》を見咎《みとが》めて彼《かれ》は始《はじ》めて其《その》火《ひ》を知《し》つた。それが東隣《ひがしどなり》の主人《しゆじん》の家《いへ》に起《おこ》つたことを聞《き》かされて彼《かれ》はおつぎを促《うなが》して立《た》つた。彼《かれ》は疾驅《しつく》しようとして、其《そ》の確乎《しつか》と身《み》を据《す》ゑた位置《ゐち》から一|歩《ぽ》を踏《ふ》み出《だ》した時《とき》、じやりつと其《その》爪先《つまさき》を打《う》つて財布《さいふ》が落《お》ちた。彼《かれ》が顧《かへり》みた時《とき》財布《さいふ》は二三|歩《ぽ》後《うしろ》に發見《はつけん》された。彼《かれ》は簡單《かんたん》な三|尺帶《じやくおび》を解《と》いて、ぎりつと其處《そこ》に大《おほ》きな塊《かたまり》のやうな結《むす》び目《め》を作《つく》つて其《そ》の財布《さいふ》を包《つゝ》んだ。
 彼《かれ》は殆《ほとん》ど其《そ》の脚力《きやくりよく》の及《およ》ぶ限《かぎ》り走《はし》つた。彼《かれ》はおつぎが後《うしろ》に續《つゞ》かぬことを顧慮《こりよ》する暇《いとま》もなかつた。彼《かれ》は其《そ》の主人《しゆじん》を懷《おも》つたのである。勘次《かんじ》は後《うしろ》の田圃《たんぼ》へ出《で》た時《とき》霧《きり》の如《ごと》き埃《ほこり》を隔《へだ》てゝ主人《しゆじん》の家《いへ》の森《もり》から騰《のぼ》る熾《さかん》な煙《けぶり》を見《み》て今更《いまさら》の如《ごと》く恐怖《きようふ》した。彼《かれ》は又《また》ふと自分《じぶん》の後《うしろ》の林《はやし》に少《すこ》し見《み》えて居《ゐ》た自分《じぶん》の家《いへ》の棟《むね》が見《み》えないのに其《その》心《こゝろ》を騷《さわ》がせた。毫《がう》も其《そ》の力《ちから》を落《おと》さぬ疾風《しつぷう》は雜木《ざふき》に交《まじ》つた竹《たけ》の梢《こずゑ》を低《ひく》くさうして更《さら》に低《ひく》く吹靡《ふきなび》けて居《を》れど棟《むね》はどうしても見《み》えなかつた。彼《かれ》は又《また》煙《けぶり》が絲《いと》の如《ごと》く然《しか》も凄《すさま》じく自分《じぶん》の林《はやし》の邊《あたり》から立《たつ》ては壓《お》しつけられるのを見《み》た。彼《かれ》が自分《じぶん》の庭《には》に立《た》つた時《とき》は、古《ふる》い煤《すゝ》だらけの疎末《そまつ》な建築《けんちく》は燒盡《やきつく》して主要《しゆえう》の木材《もくざい》が僅《わづか
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