《ゆ》くのでなくては勘次《かんじ》には不安《ふあん》で堪《たま》らないのである、さうして彼《かれ》はぽつさりと玄關《げんくわん》に踞《うづくま》つて待《ま》つて居《ゐ》ることがせめてもの氣安《きやす》めであつた。醫者《いしや》は小《ちひ》さな手鞄《てかばん》を一つ持《も》つて古《ふる》い帽子《ばうし》をちよつぽり載《いたゞ》いて出《で》た。手鞄《てかばん》は勘次《かんじ》が大事相《だいじさう》に持《も》つた。醫者《いしや》は特別《とくべつ》の出來事《できごと》がなければ俥《くるま》には乘《の》らないので、いつも朴齒《ほうば》の日和下駄《ひよりげた》で短《みじか》い體躯《からだ》をぽく/\と運《はこ》んで行《ゆ》く。それで車錢《くるません》だけでも幾《いく》ら助《たす》かるか知《し》れないといふので貧乏《びんばふ》な百姓《ひやくしやう》から能《よ》く聘《よば》れて居《ゐ》るのであつた。勘次《かんじ》は途次《みち/\》お品《しな》の容態《ようだい》を語《かた》つて醫者《いしや》の判斷《はんだん》を促《うなが》して見《み》た。醫者《いしや》は一|應《おう》見《み》なければ分《わか》らぬといつて五月蠅《うるさ》い勘次《かんじ》に返辭《へんじ》しなかつた。お品《しな》の病體《びやうたい》に手《て》を掛《か》けると醫者《いしや》は有繋《さすが》に首《くび》を傾《かたぶ》けた。それが破傷風《はしやうふう》の徴候《てうこう》であることを知《し》つて恐怖心《きようふしん》を懷《いだ》いた。さうして自分《じぶん》は注射器《ちうしやき》を持《も》たないからといつて辭退《じたい》して畢《しま》つた。勘次《かんじ》は又《また》慌《あわ》てゝ他《た》の醫者《いしや》へ駈《か》けつけた。其《そ》の醫者《いしや》は鉛筆《えんぴつ》で手帖《ててふ》の端《はし》へ一寸《ちよつと》書《か》きつけて、それでは直《すぐ》に此《これ》を藥舖《くすりや》で買《か》つて來《く》るのだといつた。それから自分《じぶん》の家《うち》へ此《これ》を出《だ》せば渡《わた》して呉《く》れるものがあるからと此《これ》も手帖《ててふ》の端《はし》を裂《さ》いた。勘次《かんじ》は又《また》川《かは》を越《こ》えて走《はし》つた。藥舖《くすりや》では罎《びん》へ入《い》れた藥《くすり》を二包《ふたつゝみ》渡《わた》して呉《く》れた。一罎《ひとびん》が七十五|錢《せん》づゝだといはれて、勘次《かんじ》は懷《ふところ》が急《きふ》にげつそりと減《へ》つた心持《こゝろもち》がした。彼《かれ》は蜻蛉返《とんぼがへ》りに歸《かへ》つて來《き》た。醫者《いしや》の家《うち》からは注射器《ちうしやき》を渡《わた》してくれた。他《ほか》の病家《びやうか》を診《み》て醫者《いしや》は夕刻《ゆふこく》に來《き》た。醫者《いしや》はお品《しな》の大腿部《だいたいぶ》を濕《しめ》したガーゼで拭《ぬぐ》つてぎつと肉《にく》を抓《つま》み上《あ》げて針《はり》をぷつりと刺《さ》した。暫《しばら》くして針《はり》を拔《ぬ》いて指《ゆび》の先《さき》で針《はり》の趾《あと》を抑《おさ》へて其處《そこ》へ絆創膏《ばんさうかう》を貼《は》つた。それが凡《すべ》て薄闇《うすくら》い手《て》ランプの光《ひかり》で行《おこな》はれた。勘次《かんじ》に手《て》ランプを近《ちか》づけさせて醫者《いしや》はやつと注射《ちうしや》を畢《をは》つた。
翌日《よくじつ》の午前《ごぜん》に來《き》て醫者《いしや》は復《また》注射《ちうしや》をして大抵《たいてい》此《こ》れでよからうといつて去《さ》つた。然《しか》しお品《しな》の容態《ようだい》は依然《いぜん》として恢復《くわいふく》の徴候《ちようこう》がないのみでなく次第《しだい》に大儀相《たいぎさう》に見《み》えはじめた。お品《しな》は其《そ》の夕刻《ゆふこく》から俄《には》かに痙攣《けいれん》が起《おこ》つた。身體《からだ》がびり/\と撼《ゆる》ぎながら手《て》も足《あし》も引《ひ》き緊《し》められるやうに後《うしろ》へ反《そ》つた。痙攣《けいれん》は時々《ときどき》發作《ほつさ》した。其《その》度《たび》毎《ごと》に病人《びやうにん》は見《み》て居《ゐ》られない程《ほど》苦惱《くなう》する。顏《かほ》が妙《めう》に蹙《しが》んで口《くち》が無理《むり》に横《よこ》へ引《ひ》き吊《つ》られるやうに見《み》える。勘次《かんじ》はたつた一人《ひとり》のおつぎを相手《あひて》に手《て》の出《だ》しやうもなかつた。さうしてしら/\明《あ》けといふと直《すぐ》に又《また》醫者《いしや》へ駈《か》けつけた。醫者《いしや》は復《また》藥舖《くすりや》へ行《い》つて來《こ》いといつた。勘次《かんじ》は又《ま
前へ
次へ
全239ページ中22ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
長塚 節 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング