ういつた。卯平《うへい》は目《め》を蹙《しが》めた。彼《かれ》は闇夜《あんや》にずんずんと運《はこ》んだ足《あし》が急《きふ》に窪《くぼ》みを踏《ふ》んでがくりと調子《てうし》が狂《くる》つたやうな容子《ようす》であつた。
「明日《あした》、要《え》れば出《だ》してやんびやな、爺等《ぢいら》どうせ夜《よる》なんぞ要《え》りやすめえしなあ」おつぎは又《また》賺《すか》すやうにいつた。卯平《うへい》はもう反覆《くりかへ》していはなかつた。彼《かれ》は只《たゞ》其《その》癖《くせ》の舌《した》を鳴《な》らしてごくりと唾《つば》を嚥《の》むのみであつた。次《つぎ》の朝《あさ》に成《な》つて酒氣《しゆき》が悉《こと/″\》く彼《かれ》の身體《からだ》から發散《はつさん》し盡《つく》したら彼《かれ》は平生《へいぜい》の卯平《うへい》であつた。
二四
卯平《うへい》は決《けつ》して惡人《あくにん》ではなかつた。彼《かれ》は性來《せいらい》嚴疊《がんでふ》で大《おほ》きな身體《からだ》であつたけれど、其《そ》の蹙《しか》めたやうな目《め》には不斷《ふだん》に何處《どこ》か軟《やはら》かな光《ひかり》を有《も》つて居《ゐ》るやうで、思《おも》ひ切《き》つてせねば成《な》らぬ事件《じけん》に出逢《であ》うても二|度《ど》や三|度《ど》は逡巡《しりごみ》するのがどうかといへば彼《かれ》の癖《くせ》の一つであつた。ぶすりと膠《にべ》ない容子《ようす》でも表面《へうめん》に現《あらは》れたよりも暖《あたゝ》かで、女《をんな》に脆《もろ》い處《ところ》さへあるのであつた。彼《かれ》が盛年《さかり》の頃《ころ》に他人《たにん》の目《め》についたのは、自分自身《じぶんじしん》の仕事《しごと》には餘《あま》り精《せい》を出《だ》さないやうに見《み》えることであつた。大概《たいがい》のことでは一|向《かう》に騷《さわ》がぬやうな彼《かれ》の容子《ようす》が外《ほか》からではさうらしくも見《み》えるのであつた。も一つは服裝《ふくさう》を決《けつ》して崩《くず》さぬことであつた。彼《かれ》は他人《たにん》に傭《やと》はれて居《ゐ》ながら、草刈《くさかり》にでも出《で》る時《とき》は手拭《てぬぐひ》と紺《こん》の單衣《ひとへもの》と三|尺帶《じやくおび》とを風呂敷《ふろしき》に包《つゝ》んで馬《うま》の荷鞍《にぐら》に括《くゝ》つた。其《その》頃《ころ》は草《くさ》というては悉皆《みんな》薙倒《なぎたふ》して麁朶《そだ》でも縛《しば》るやうに中央《ちうあう》を束《つか》ねて馬《うま》に積《つ》むのであつた。雜木林《ざふきばやし》の間《あひだ》に馬《うま》を繋《つな》いだ儘《まゝ》で彼《かれ》は衣物《きもの》を改《あらた》めてあてどもなくぶらつくのが好《す》きであつた。それでも彼《かれ》の強健《きやうけん》な鍛練《たんれん》された腕《うで》は定《さだ》められた一|人分《にんぶん》の仕事《しごと》を果《はた》すのは日《ひ》が稍《やゝ》傾《かたぶ》いてからでも強《あなが》ち難事《なんじ》ではないのであつた。此《こ》の二つの外《ほか》には別段《べつだん》此《こ》れというて數《かぞ》へる程《ほど》他人《たにん》の記憶《きおく》にも残《のこ》つて居《ゐ》なかつた。それでも彼《かれ》の大《おほ》きな躰躯《からだ》と性來《せいらい》の器用《きよう》とは主人《しゆじん》をして比較的《ひかくてき》餘計《よけい》な給料《きふれう》を惜《をし》ませなかつた。彼《かれ》は其《そ》の奉公《ほうこう》して獲《え》た給料《きふれう》を自分《じぶん》の身《み》に費《つひや》して其《そ》の頃《ころ》では餘所目《よそめ》には疑《うたが》はれる年頃《としごろ》の卅|近《ぢか》くまで獨身《どくしん》の生活《せいくわつ》を繼續《けいぞく》した。其《その》間《あひだ》に彼《かれ》は黴毒《ばいどく》を病《や》んだ。一|時《じ》はぶら/\と懶相《だるさう》な蒼《あを》い顏《かほ》もして居《ゐ》たが、病氣《びやうき》は暫《しばら》くして忘《わす》れたやうに其《そ》の強健《きやうけん》な身體《からだ》の何處《どこ》にか潜伏《せんぷく》して畢《しま》つた。彼《かれ》は勿論《もちろん》それを癒《なほ》つたことゝ思《おも》つて居《ゐ》た。其《そ》の内《うち》に彼《かれ》は娶《よめ》をとつて小《ちひ》さな世帶《しよたい》を持《も》つて稼《かせ》ぐことになつた。娶《よめ》は間《ま》もなく懷姙《くわいにん》したが胎兒《たいじ》は死《し》んでさうして腐敗《ふはい》して出《で》た。自分《じぶん》も他人《ひと》も瘡《かさ》ツ子《こ》だといつた。二三|人《にん》生《うま》れたがどれも發育《はついく》しなかつた。それで
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