さんは突然《いきなり》疊《たゝみ》へ口《くち》をつけてすう/\と呼吸《いき》もつかずに酒《さけ》を啜《すゝ》つてそれから強《つよ》い咳《せき》をして、ざら/\に成《な》つた口《くち》の埃《ほこり》を手拭《てぬぐひ》でこすつた。
「婆等《ばゝあら》勿體《もつてえ》ねえことすつから仕《し》やうねえ、いや勿體《もつてえ》ねえとも米《こめ》の油《あぶら》だからこんで、それ證據《しようこ》にや酒《さけ》飮《の》んだ明日《あした》ぢや面《つら》洗《あら》あ時《とき》つる/\すつ處《とこ》奇態《きてえ》だな、何《なん》でも人間《にんげん》は油《あぶら》吹《ふ》き出《だ》すやうだら身體《からだ》は大丈夫《だえぢやうぶ》だから、卯平《うへい》そうれ一|杯《ぺえ》飮《の》め」爺《ぢい》さんは又《また》口《くち》を手拭《てぬぐひ》でこすりつゝいつた。
「畜生《ちきしやう》だからあゝだ野郎《やらう》は、畜生《ちきしやう》とおんなじだから」爺《ぢい》さんは小《ちひ》さな頭《あたま》の濕《うるほ》ひを又《また》すつと手拭《てぬぐひ》でふいた。
「其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》におめえ、畜生《ちきしやう》だなんて、手《て》もとも見《み》もしねえで」と先刻《さつき》の服裝《みなり》の好《い》い婆《ばあ》さんが窘《たしな》めるやうにいつた。
「いやツ、お婆《ばあ》さん、手《て》もと見《み》ねえつたつてさうに極《きま》つてんだから、いや本當《ほんたう》だよ。俺《お》ら嘘《ちく》いふな嫌《きれ》えだから、そんだがあの阿魔《あま》もづう/\しい阿魔《あま》だ、此間《こねえだ》なんざおつかこた思《おも》ひ出《だ》さねえかつちつたら、思《おも》ひ出《だ》さねえなんて吐《ぬ》かしやがつて」爺《ぢい》さんは又《また》乘地《のりぢ》に成《な》つた。
「ありやあそれ、俺《お》れがにやえゝんだよ、隨分《ずゐぶん》辛《つれ》え目《め》に逢《あ》つたから、お袋《ふくろ》こと思《ま》あねえこたねえが、悉皆《みんな》揶揄《からけ》え/\したからそんでさうだこといふやうん成《な》つたんだな、有繋《まさか》あれだつて困《こま》つちや居《ゐ》んだから、何《なん》ちつたつてあれにや罪《つみや》あねえよ」最後《さいご》の一|句《く》をすつと低《ひく》くいつて彼《かれ》は漸《やうや》く茶碗《ちやわん》の底《そこ》を干《ほ》した。
「勘次《かんじ》も辛《つら》かつたんべが、俺《お》らも品《しな》に死《し》なつた時《とき》にや泣《ね》えたよ、あれこた三《みつ》つの時《とき》ツから育《そだ》ツたんだから」卯平《うへい》は又《また》情《なさけ》なげな舌《した》がもう硬《こは》ばつて畢《しま》つた。
「ほんにおめえもお品《しな》さんに死《なく》ならつたのが不運《くされ》だつけのさな、そんだがおめえ長命《ながいき》したゞけええんだよ」婆《ばあ》さん等《ら》は口々《くちぐち》に慰《なぐさ》めつゝいつた。
「手足《てあし》も利《き》かなくなつちやつて錢《ぜね》はとれずはあ、野田《のだ》で拵《こせ》えた單衣物《ひてえもの》もなくしつちやつたな、どうせ此《こ》れ、來年《らいねん》の夏《なつ》まで生《い》きてられつか何《ど》うだか分《わか》りやすめえし、管《かま》あねえな」卯平《うへい》は口《たゞ》獨《ひと》りで呟《つぶ》やくやうにぶすりといつた。彼《かれ》は殆《ほと》んど其《そ》の舌《した》が味《あぢ》を感《かん》ぜぬであらうと思《おも》ふやうに只《たゞ》茶碗《ちやわん》の酒《さけ》を傾《かたむ》けるのみであつた。
「そんだが娘《むすめ》も年頃《としごろ》來《き》てんのに遣《や》るとかとるとかしねえぢや可哀相《かあいさう》だよなあ」婆《ばあ》さん等《ら》の口《くち》はそれからそれと竭《つ》きなかつた。酒《さけ》に勢《いきほ》ひつけられた婆《ばあ》さん等《ら》は何《なに》かの穿鑿《せんさく》をせねば氣《き》が濟《す》まないのであつた。
「どうするこつたか自分《じぶん》の子供《こども》でもありやすめえし、俺《お》らがにや分《わか》んねえな」卯平《うへい》は何處《どこ》までも乾《からび》たいひやうである。
「そんだがよ、噺《はな》してやつとえゝんだな、出《だ》すと極《きま》りや幾《いく》らでも口《くち》は有《あ》らな」
「徒勞《むだ》だよおめえ、誰《だれ》がいふことだつて聽《き》く苦勞《くらう》はねえんだから」婆《ばあ》さん等《ら》は互《たがひ》に勝手《かつて》なことをがや/\と語《かた》り續《つゞ》けた。
「そんぢや隣《となり》の旦那《だんな》にでもようく噺《はな》してもらつたら聽《き》くかも知《し》んねえぞ、それより外《ほか》あねえぞおめえ」婆《ばあ》さんの一人
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