うせつ》に感《かん》ずる程度《ていど》の相違《さうゐ》はあるにしても、死《し》の問題《もんだい》に苦《くる》しめられて居《ゐ》るのは事實《じじつ》である。卯平《うへい》の心《こゝろ》にも同《おな》じく死《し》の觀念《くわんねん》が止《や》まず往來《わうらい》した。
 彼《かれ》は其《その》手先《てさき》の自由《じいう》を失《うしな》うた時《とき》自棄《やけ》の心《こゝろ》から彼《かれ》の風呂敷包《ふろしきづゝみ》を解《と》いた。野田《のだ》に居《ゐ》た頃《ころ》主人《しゆじん》や又《また》は主人《しゆじん》の用《よう》での出先《でさき》から貰《もら》つた幾筋《いくすぢ》の手拭《てぬぐひ》を繼《つ》ぎ合《あは》せて拵《こしら》へた浴衣《ゆかた》を出《だ》した。清潔好《きれいずき》な彼《かれ》には派手《はで》な手拭《てぬぐひ》の模樣《もやう》が當時《たうじ》矜《ほこり》の一《ひと》つであつた。彼《かれ》はもう自分《じぶん》の心《こゝろ》を苛《いぢ》めてやるやうな心持《こゝろもち》で目欲《めぼ》しい物《もの》を漸次《だん/\》に質入《しちいれ》した。彼《かれ》は眼前《がんぜん》に氷《こほり》が閉《と》ぢては毎日《まいにち》暖《あたゝか》い日《ひ》の光《ひかり》に溶解《ようかい》されるのを見《み》て居《ゐ》た。彼《かれ》にはそれが只《たゞ》さういふ現象《げんしやう》としてのみ眼《め》に映《うつ》つた。彼《かれ》は自由《じいう》を失《うしな》うた其《その》手先《てさき》が暖《あたゝか》い春《はる》の日《ひ》が積《つも》つて漸次《だん/\》に和《やは》らげられるであらうといふ微《かす》かな希望《のぞみ》をさへ起《おこ》さぬ程《ほど》身《み》も心《こゝろ》も僻《ひが》んでさうして苦《くる》しんだ。彼《かれ》の風呂敷包《ふろしきづゝみ》から獲《え》つゝあつた金錢《きんせん》は些少《すこし》のものであつたが、それは時《とき》として彼《かれ》の硬《こは》ばつた舌《した》に適《てき》した食料《しよくれう》の或《ある》物《もの》を求《もと》める外《ほか》に一|部分《ぶぶん》は與吉《よきち》の小《ちひ》さな手《て》に落《おと》されるのであつた。果敢《はか》ない煙草入《たばこいれ》の叺《かます》の中《なか》を懸念《けねん》するやうに彼《かれ》は數次《しばしば》覗《のぞ》いた。陰鬱《いんうつ》な狹《せま》い小屋《こや》の中《なか》で覗《のぞ》く叺《かます》の底《そこ》は闇《くら》かつた。僅《わづ》かに交《まじ》つた小《ちひ》さな白《しろ》い銀貨《ぎんくわ》が見《み》る度《たび》に彼《かれ》の心《こゝろ》に幾《いく》らかの光《ひかり》を與《あた》へた。彼《かれ》が什※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《どんな》に惜《をし》んでも叺《かます》の中《なか》の減《へ》つて行《ゆ》くのを防《ふせ》ぐことは出來《でき》ない。然《しか》も寡言《むくち》な彼《かれ》は徒《いたづ》らに自分《じぶん》獨《ひとり》が噛《か》みしめて、絶《た》えず只《たゞ》憔悴《せうすゐ》しつゝ沈鬱《ちんうつ》の状態《じやうたい》を持續《ぢぞく》した。彼《かれ》は其《その》状態《じやうたい》を保《たも》つて念佛寮《ねんぶつれう》の圍爐裏《ゐろり》にどつかと懶《ものう》い身體《からだ》を据《す》ゑて居《ゐ》た。
 庭《には》の騷《さわ》ぎは止《や》んで疾風《しつぷう》の襲《おそ》うた如《ごと》く寮《れう》の内《うち》は復《また》雜然《ざつぜん》として卯平《うへい》を圍《かこ》んだ沈鬱《ちんうつ》な空氣《くうき》を攪亂《かくらん》した。軈《やが》て老人等《としよりら》が互《たがひ》の懷錢《ふところせん》を出《だ》し合《あ》うた二|升樽《しやうだる》が運《はこ》ばれて酒《さけ》が又《また》沸《わか》された。酒《さけ》の座《ざ》は圍爐裏《ゐろり》に近《ちか》く形《かたちづく》られた。其《そ》の時《とき》まだ與吉《よきち》は去《さ》らなかつた。卯平《うへい》は默《だま》つて五|厘《りん》の銅貨《どうくわ》を投《な》げた。側《そば》に居《ゐ》た一人《ひとり》の老人《としより》がそれを拾《ひろ》はうとして見《み》せると與吉《よきち》は兩方《りやうはう》の手《て》を掛《かけ》てそれから身《み》を以《もつ》て俺《おほ》うた。彼《かれ》はそれを堅《かた》く掴《つか》んで
「爺《ぢい》、いま一《ひと》つくんねえか」と更《さら》に強請《せが》んだ。彼《かれ》は五|厘《りん》の銅貨《どうくわ》を大事《だいじ》にした。然《しか》し彼《かれ》は暫《しばら》く一|錢《せん》の銅貨《どうくわ》に訓《な》れて居《ゐ》たので心《こゝろ》に僅《わづか》な不足《ふそく》を感《かん》じたのであつた
前へ 次へ
全239ページ中194ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
長塚 節 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング