春《はる》の徴候《きざし》でなければならなかつた。
然《しか》しながら卯平《うへい》は只《たゞ》獨《ひと》り其《その》群《むれ》に加《くは》はらなかつた。老人等《としよりら》の勢《いきほ》ひがごつと庭《には》に移《うつ》つた時《とき》寮《れう》の内《うち》は其《そ》の騷《さわ》ぎの聲《こゑ》が一|杯《ぱい》に襲《おそ》ひ來《き》て喧《やかま》しいにも拘《かゝは》らず寂《さび》しかつた。圍爐裏《ゐろり》の火《ひ》も灰《はひ》が白《しろ》く掩《おほ》うて滅切《めつきり》と衰《おとろ》へた。卯平《うへい》は凝然《ぢつ》と腕《うで》を拱《こまね》いた儘《まゝ》眼《め》を蹙《しか》めて燃《も》え退《の》いた薪《まき》をすら突《つ》き出《だ》さうとしなかつた。彼《かれ》には庭《には》の節制《だらし》のない騷《さわ》ぎの聲《こゑ》が其《そ》の耳《みゝ》を支配《しはい》するよりも遠《とほ》く且《かつ》遙《はるか》な闇《やみ》に何物《なにもの》をか搜《さが》さうとしつゝあるやうに只《たゞ》惘然《ばうぜん》として居《ゐ》るのであつた。與吉《よきち》は紙包《かみづゝ》みの小豆飯《あづきめし》を盡《つく》して暫《しば》らく庭《には》の騷《さわ》ぎを見《み》て居《ゐ》たが寮《れう》の内《うち》に※[#「煢−冖」、第4水準2−79−80]然《ぽつさり》として居《ゐ》る卯平《うへい》を見出《みいだ》して圍爐裏《ゐろり》に近《ちか》く迫《せま》つた。
「爺《ぢい》くんねえか」と彼《かれ》は又《また》何時《いつ》ものやうに卯平《うへい》に甘《あま》えた。卯平《うへい》は其《その》聲《こゑ》を聞《き》いても暫《しばら》く蹙《しが》んだ儘《まゝ》で居《ゐ》た。
立春《りつしゆん》の日《ひ》を過《す》ぎてから、却《かへつ》て黄昏《たそがれ》の果敢《はか》ない薄《うす》い光《ひかり》の空《そら》に吹《ふ》き落《お》ちる筈《はず》の西風《にしかぜ》が何《なに》を憤《いか》つてか吹《ふ》いて/\吹《ふ》き捲《まく》つて、夜《よ》に渡《わた》つても幾日《いくにち》か止《や》まぬ程《ほど》な稀有《けう》な現象《げんしやう》に伴《ともな》うて、鬼怒川《きぬがは》の淺瀬《あさせ》が氷《こほり》に閉《とざ》されて、軈《やが》て氷《こほり》の塊《かたまり》が流《なが》れたといふ噂《うはさ》が立《た》つたことがあつた。卯平《うへい》はそれと共《とも》に其《そ》の乾燥《かんさう》した肌膚《はだ》が餘計《よけい》に荒《あ》れて寒冷《かんれい》の氣《き》が骨《ほね》に徹《てつ》したかと思《おも》ふと俄《にはか》に手《て》の自由《じいう》を失《うしな》つて來《き》たやうに自覺《じかく》した。彼《かれ》は繩《なは》を綯《な》ふにも草鞋《わらぢ》を作《つく》るにも、其《それ》が或《ある》凝塊《しこり》が凡《すべ》ての筋肉《きんにく》の作用《さよう》を阻害《そがい》して居《ゐ》るやうで各部《かくぶ》に疼痛《とうつう》をさへ感《かん》ずるのであつた。器用《きよう》な彼《かれ》の手先《てさき》が彼自身《かれじしん》の物《もの》ではなくなつた。彼《かれ》は與吉《よきち》が狹《せま》い戸口《とぐち》に立《た》つ毎《ごと》に心《こゝろ》から迎《むか》へる以前《いぜん》の卯平《うへい》ではなくなつて居《ゐ》た。それでも彼《かれ》は與吉《よきち》を愛《あい》して居《ゐ》た。
「明日《あした》にしろ」と彼《かれ》は簡單《かんたん》に拒絶《きよぜつ》してさうしてそれつきりいはないことが有《あ》るやうになつた。與吉《よきち》は屡《しば/\》さういはれて悄然《せうぜん》として居《ゐ》るのを、卯平《うへい》は凝視《みつ》めて餘計《よけい》に目《め》を蹙《しか》めつゝあるのであつた。さういふことが幾度《いくたび》か幾日《いくにち》か反覆《くりかへ》された後《のち》卯平《うへい》は與吉《よきち》へ一|錢《せん》の銅貨《どうくわ》を與《あた》へた。從來《これまで》に倍《ばい》して居《ゐ》るのと殆《ほとん》ど復《また》拒絶《きよぜつ》されるのではないかといふ懸念《けねん》を懷《いだ》きつゝある與吉《よきち》は何時《いつ》でも其《それ》に非常《ひじやう》な滿足《まんぞく》を表《あら》はした。其《その》容子《ようす》を見《み》る卯平《うへい》は勢《いきほ》ひ心《こゝろ》が動《うご》かされた。
自分《じぶん》の老衰者《らうすゐしや》であることを知《し》つた時《とき》諦《あきら》めのない凡《すべ》ては、動《と》もすれば互《たがひ》に餘命《よめい》の幾何《いくばく》もない果敢《はか》なさを語《かた》り合《あ》うて、それが戲談《じようだん》いうて笑語《さゞめ》く時《とき》にさへ絶《た》えず反覆《くりかへ》されて、各自《かくじ》が痛切《つ
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