《まゝ》であつた。卯平《うへい》はそれでも種々《いろいろ》な百姓料理《ひやくしやうれうり》の鹽辛《しほから》い重箱《ぢゆうばこ》へ箸《はし》をつけて近頃《ちかごろ》になく快《こゝろ》よかつた。彼《かれ》は腹《はら》に一|杯《ぱい》になる迄《まで》には、缺《か》けた齒齦《はぐき》で噛《か》んで嚥下《のみくだ》して、更《さら》に次《つぎ》の箸《はし》が口《くち》まで來《く》る其《そ》の悠長《いうちやう》な手《て》の運動《うんどう》が待遠《まちどほ》で口腔《こうかう》の粘膜《ねんまく》からは自然《しぜん》に薄《うす》い水《みづ》のやうな唾液《つば》の湧《わ》いて出《で》るのを抑《おさ》へることが出來《でき》ない程《ほど》であつた。
 威勢《ゐせい》よく成《な》つた老人等《としよりら》は赤《あか》い胴《どう》の太鼓《たいこ》を首筋《くびすぢ》から胸《むね》へ吊《つ》つて、だらり/\と叩《たゝ》いて先《さき》に立《た》つと足《あし》もと手《て》もと節制《だらし》なくなつた凡《すべ》てが後《あと》から/\と、殊《こと》に婆《ばあ》さん等《ら》は騷《さわ》ぎながら跟《つい》て出《で》る。軒端《のきば》から青竹《あをだけ》の棚《たな》に添《そ》うて敷《し》いてある筵《むしろ》を渡《わた》つて徐《おもむろ》に廻《まは》る。彼等《かれら》はそれをお山廻《やままは》りといふのである。相互《さうご》に踉蹌《よろ》けながら踊《をどり》とも何《なん》ともつかぬ剽輕《へうきん》な手足《てあし》の動《うご》かしやうをして、蓄《たくは》へて置《お》いた一|年中《ねんぢう》の笑《わらひ》を一|時《じ》に吐《は》き出《だ》したかと思《おも》ふ程《ほど》の聲《こゑ》を放《はな》つて止《と》めどもなくどよめいた。遂《つひ》には列《れつ》が亂《みだ》れて互《たがひ》に衝突《しようとつ》しては足《あし》を踏《ふ》んだり踏《ふ》まれたりして、一人《ひとり》が倒《たふ》れゝば後《あと》から/\と折重《をりかさな》つて一《ひと》しきり同《おな》じ處《ところ》に止《と》まつてはがや/\と騷《さわ》いだ。彼等《かれら》は殆《ほとん》ど冷却《れいきやく》しようとしつゝある肉體《にくたい》の孰《いづ》れの部分《ぶぶん》かに失《うしな》はれんとしてほつちりと其《その》俤《おもかげ》を止《と》めて居《ゐ》た青春《せいしゆん》の血液《けつえき》の一|滴《てき》が俄《にはか》に沸《わ》いて彼等《かれら》の全體《ぜんたい》を支配《しはい》し且《かつ》活動《くわつどう》せしめたかと思《おも》ふやうに、枯燥《こさう》しつゝある彼等《かれら》の顏《かほ》にはどれでも華《はな》やかな紅《べに》を潮《さ》して居《ゐ》る。彼等《かれら》は全《まつた》く節制《たしなみ》を失《うしな》つて居《を》る。彼等《かれら》は平生《へいぜい》家族《かぞく》に交《まじ》つて、其《その》老衰《らうすゐ》の身《み》がどうしても自然《しぜん》に壯者《さうしや》の間《あひだ》に疎外《そぐわい》されつゝ、各自《かくじ》は寧《むし》ろ無意識《むいしき》でありながら然《しか》も鬱屈《うつくつ》して懶《ものう》い月日《つきひ》を過《すご》しつゝある時《とき》に、例年《れいねん》の定《さだ》めである念佛《ねんぶつ》の日《ひ》はさういふ凡《すべ》てを放《はな》つ自由境《じいうきやう》である。彼等《かれら》は其處《そこ》に些《すこし》の遠慮《ゑんりよ》をも有《も》つて居《を》らぬ。彼等《かれら》は冬季《とうき》の間《あひだ》を長《なが》い夜《よ》の眠《ねむ》りに飽《あ》きつゝ寒《さむ》さに苛《いぢ》められて居《ゐ》た苦《くる》しさを、もう空《そら》の何處《どこ》にか其《そ》の勢《いきほ》ひを潜《ひそ》めて躊躇《ちうちよ》して居《ゐ》る筈《はず》の春《はる》に先立《さきだ》つて一|度《ど》に取返《とりかへ》さうとするものゝ如《ごと》く騷《さわ》いで/\又《また》騷《さわ》ぐのである。酒《さけ》が其處《そこ》に火《ひ》を點《てん》じた。庭《には》の四|本《ほん》の青竹《あをだけ》に長《は》つた繩《なは》の赤《あか》や青《あを》や黄《き》の刻《きざ》んだ注連《しめ》がひら/\と動《うご》きながら老人等《としよりら》と一《ひと》つに私語《さゝや》くやうに見《み》えた。日《ひ》は陽氣《やうき》な庭《には》へ一|杯《ぱい》に暖《あたゝ》かな光《ひかり》を投《なげ》た。庭《には》には子供等《こどもら》や村落《むら》の者《もの》がぞろつと立《たつ》て此《この》騷《さわ》ぎを笑《わら》つて見《み》て居《ゐ》た。其《その》邊《へん》には難《むづ》かし相《さう》なものは一《ひと》つも見《み》られなかつた。彼等《かれら》を包《つゝ》んだ軟《やはら》かな空氣《くうき》が
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