ら」爺《ぢい》さんは戲談《じようだん》らしくいつた。
「獨《ひとり》ぢやあんめえな、かうやつて三|人《にん》も四人《よつたり》も居《ゐ》たんだものなあ」
「さうだとも、此《こ》の位《くれえ》俺《お》らげよこしたつて本當《ほんたう》にすりやえゝんだよ、なあ、俺《お》らなんざ上《あが》つた酒《さけ》だつてさうだに飮《の》むべぢやなし」婆《ばあ》さん等《ら》は抗辯《かうべん》するやうにいつた。悉皆《みんな》が一《ひと》つ/\と鮨《すし》を撮《つま》んだ。
「そりやさうと、酒《さけ》どうしたえ」小柄《こがら》な爺《ぢい》さんはひよつと自在鍵《じざいかぎ》の儘《まゝ》土瓶《どびん》を手《て》もとへ引《ひき》つけて、底《そこ》へ手《て》を當《あ》てゝ見《み》た。
「放心《うつかり》してゝ此《こ》ら※[#「赭のつくり/火」、第3水準1−87−52]立《にた》ツちやあ處《とこ》だつけ」と急《いそ》いで土瓶《どびん》を外《はづ》して
「俺《お》らさうだ鮨《すし》なんざ自分《じぶん》ぢや一《ひと》つでも欲《ほ》しかねえんだから、さうだ物《もの》で滿腹《はらくち》くしたつ位《くれえ》酒《さけ》からツき甘《うま》くなくしつちやあから、」爺《ぢい》さんは土瓶《どびん》を疊《たゝみ》の上《うへ》へ置《お》いていつた。悉皆《みんな》がずらりと座《ざ》を作《つく》つた。茶呑茶碗《ちやのみぢやわん》が一《ひと》つ/\に置《お》かれて、何處《どこ》からか供《そな》へられた芋《いも》や牛蒡《ごばう》や人參《にんじん》や其《そ》の他《た》の野菜《やさい》の煮〆《にしめ》が重箱《ぢゆうばこ》の儘《まゝ》置《お》かれた。其處《そこ》には膳《ぜん》も臺《だい》も何《なに》もなかつた。土瓶《どびん》の酒《さけ》が徳利《とくり》へ移《うつ》されて土瓶《どびん》は再《ふたゝ》び自在鍵《じざいかぎ》へ吊《つる》された。二|度目《どめ》の酒《さけ》が茶碗《ちやわん》へ注《つ》がれた時《とき》
「此《こ》ら駄目《だめ》だ、焦臭《こげくさ》くしツちやつた、酒《さけ》沸《わか》すのにや畢《を》へねえどうも氣《き》をつけなくつちや、酒《さけ》と茶《ちや》はちつとでも臭味《くさみ》移《うつ》らさんだから」小柄《こがら》な爺《ぢい》さんは茶碗《ちやわん》を口《くち》へ當《あ》てゝ左《さ》も憤慨《ふんがい》に堪《た》へぬものゝやうにいつた。
「なあに、土瓶《どびん》だつて二|度目《どめ》のが少《すこ》しに仕《し》ねえで、先刻《さつき》のがより餘計《よけい》なツ位《くれえ》注《つ》ぎせえすりや大丈夫《だいぢようぶ》なんだが、それさうでねえと周圍《まあり》がそれ焦《こ》びつから」と側《そば》から直《す》ぐに口《くち》が出《で》た。
「そんぢや、今度《こんだ》澤山《しつかり》入《せ》えびやな、俺《お》ら碌《ろく》に飮《の》んもしねえで、怒《おこ》られちやつまんねえな」土瓶《どびん》を手《て》にした婆《ばあ》さんは笑《わら》ひながらいつた。
「本當《ほんたう》にすりや、一|遍《ぺん》毎《ごと》に土瓶《どびん》の中《なか》水《みづ》でゆすがなくつちや駄目《だめ》なんだがな」
「そつから、はあ、鐵瓶《てつびん》の中《なか》さ徳利《とつくり》おしこめばえゝんだな、さうすりやどうだもかうだもねえんだな」
「折角《せつかく》甘《うめ》え酒《さけ》臺《でえ》なしにして可惜物《あつたらもん》だな、此《こ》らこんで餘程《よつぽど》えゝ酒《さけ》だぞ」抔《など》といふ聲《こゑ》が雜然《ざつぜん》として聞《きこ》えた。
「鐵瓶《てつびん》ぢや徳利《とつくり》一|本《ぽん》づつしかへえんねえから面倒臭《めんだうくさ》かんべと思《おも》つてよ」と婆《ばあ》さんはいひながら、一|旦《たん》沸《たぎ》つた鐵瓶《てつびん》を懸《か》けた。樽《たる》が空虚《から》になつて悉皆《みんな》飮《の》む者《もの》は銘酊《よつぱら》つてがや/\と只《たゞ》騷《さわ》いだ。
卯平《うへい》は圍爐裏《ゐろり》の側《そば》を離《はな》れずにむつゝりとして杯《さかづき》をとらぬ婆《ばあ》さん等《ら》と火《ひ》にあたりながら、煙管《きせる》を持《も》たぬ所在《しよざい》なさに麁朶《そだ》の先《さき》を折《を》つて其《その》癖《くせ》の舌《した》を鳴《な》らしつゝ齒齦《はぐき》をつゝいて居《ゐ》た。彼《かれ》は悉皆《みんな》が騷《さわ》いで居《ゐ》る間《ま》に自分《じぶん》の腹《はら》に足《た》りるだけの鮨《すし》や惚菜《そうざい》やらを箸《はし》に挾《はさ》んで杯《さかづき》へは手《て》を觸《ふ》れようとしなかつた。老人等《としよりら》は自分《じぶん》の騷《さわ》ぐ方《はう》にばかり心《こゝろ》を奪《うば》はれて卯平《うへい》のことはそつちのけにした儘
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