しつとりとした一|種《しゆ》の潤《うるほ》ひが火《ひ》の足《あし》を引止《ひきと》めるやうな力《ちから》はなくて一|度《ど》吸《す》へば直《すぐ》に灰《はひ》になつて、煙脂《やに》で塞《ふさ》がらうとして居《ゐ》る羅宇《らう》の空隙《くうげき》を透《とほ》して煙《けぶり》が口《くち》に滿《み》ちる時《とき》はつんとした厭《いや》な刺戟《しげき》を鼻《はな》に感《かん》ずるのであつた。葡萄《ぶだう》の葉《は》を他人《ひと》に勸《すゝ》められて見《み》たが、此《こ》れも到底《たうてい》彼《かれ》の嗜好《しかう》を欺《あざむ》くことは出來《でき》なかつた。彼《かれ》は煙管《きせる》を手《て》にすることが慾念《よくねん》を忘《わす》れ得《う》る方法《はうはふ》でないことを知《し》つて、彼《かれ》は丁度《ちやうど》他人《たにん》に對《たい》する或《ある》憤懣《ふんまん》の情《じやう》から當《あ》てつけに自分《じぶん》の愛兒《あいじ》を夥《したゝ》かに打《う》ち据《す》ゑる者《もの》のやうに羅宇《らう》を踏《ふ》み潰《つぶ》した。然《しか》しそれを誰《たれ》も見《み》ては居《ゐ》なかつた。それでも彼《かれ》は空虚《から》な煙草入《たばこいれ》を放《はな》すに忍《しの》びない心持《こゝろもち》がした。彼《かれ》は僅《わづか》な小遣錢《こづかひせん》を入《い》れて始終《しじう》腰《こし》につけた。此《こ》れも空虚《から》に成《な》つてはくた/\として力《ちから》のない革《かは》の筒《つゝ》には潰《つぶ》れた儘《まゝ》の煙管《きせる》を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]《さ》して居《ゐ》た。彼《かれ》は暫《しばら》くさうして居《ゐ》たがどうかしては忘《わす》れて癖《くせ》づけられた手先《てさき》が不用《ふよう》な煙草入《たばこいれ》を探《さぐ》らせるのであつた。
日《ひ》は漸《やうや》く庭《には》の霜《しも》を溶《とか》して射《さ》し掛《か》けた。彼《かれ》は不快《ふくわい》な朝《あさ》を目《め》に蹙《しか》めた復《ま》たぽつさりと念佛寮《ねんぶつれう》へ窶《やつ》れた身《み》を運《はこ》んだ。彼《かれ》は田圃《たんぼ》の側《そば》へおりて小徑《こみち》を行《い》つた。道筋《みちすぢ》には處々《ところ/″\》離《はな》れ離《ばな》れな家《いへ》の隙間《すきま》に小《ちひ》さな麥畑《むぎばたけ》があつた。麥畑《むぎばたけ》の畝《うね》は大抵《たいてい》東西《とうざい》に形《かたち》づけられてあつた。遠《とほ》くから南《みなみ》へ廻《まは》らうとして居《ゐ》る日《ひ》は思《おも》ひの外《ほか》に暖《あたゝ》かい光《ひかり》で一|帶《たい》に霜《しも》を溶《と》かしたので、何處《どこ》でも水《みづ》を打《う》つたやうな濕《うるほ》ひを持《も》つて居《ゐ》た。然《しか》し薄《うす》い日《ひ》の光《ひかり》は畑《はたけ》の畝《うね》が形《かたち》づくつて居《ゐ》る長《なが》い小山《こやま》の頂點《ちやうてん》を越《こ》えて幾《いく》らも其《そ》の力《ちから》を及《およ》ぼさなかつた。どの畝《うね》でも其《その》陰《かげ》は依然《いぜん》として白《しろ》かつた。卯平《うへい》は田圃《たんぼ》に從《つ》いて北側《きたがは》の道《みち》を歩《ある》いたので彼《かれ》の目《め》には悉《こと/″\》く夜明《よあけ》の如《ごと》き白《しろ》い冷《つめ》たい霜《しも》を以《もつ》て掩《おほ》はれて居《ゐ》る畑《はたけ》のみが映《うつ》つた。
午後《ごご》から村落《むら》のどの家《いへ》からも風呂敷包《ふろしきづゝみ》の飯《めし》つぎや重箱《ぢゆうばこ》が寮《れう》へ運《はこ》ばれた。老人等《としよりら》は皆《みな》夫《それ》を埃《ほこり》だらけな佛壇《ぶつだん》の前《まへ》に供《そな》へた。穢《きたな》い風呂敷包《ふろしきづゝみ》が小山《こやま》の如《ごと》く積《つ》まれた時《とき》念佛《ねんぶつ》の太鼓《たいこ》が復《また》鳴《な》つた。それから庭《には》に聚《あつま》つた子供等《こどもら》の前《まへ》に其《そ》の飯《めし》つぎや重箱《ぢゆうばこ》の供物《くもつ》が分與《ぶんよ》された。念佛衆《ねんぶつしゆう》はそれから更《さら》に酒《さけ》を飮《の》んで各自《てんで》に重箱《ぢゆうばこ》や飯《めし》つぎを箸《はし》でつゝいて近頃《ちかごろ》にない口腹《こうふく》の慾《よく》を充《み》たしめた。獨《ひとり》卯平《うへい》は杯《さかづき》を手《て》にしなかつた。彼《かれ》は他《た》の老人《としより》に先立《さきだ》つて自分《じぶん》の家《うち》の重箱《ぢゆうばこ》を持《も》つてぽさ/\と歸《かへ》つた。大抵《たいてい》の家《う
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