《しかた》なしに小鍋《こなべ》を火鉢《ひばち》へ掛《か》けた。彼《かれ》は微《かす》かに白《しろ》い水蒸氣《ゆげ》が鍋《なべ》から立《た》ち始《はじ》めた時《とき》お玉杓子《たまじやくし》で掻《か》き立《た》てゝ吸《す》つて見《み》たが猶且《やつぱり》冷《つめ》たかつた。彼《かれ》は復《ま》た火鉢《ひばち》へ麁朶《そだ》を足《た》して重箱《ぢゆうばこ》の飯《めし》を鍋《なべ》へ入《い》れた。火鉢《ひばち》の割合《わりあひ》には大《おほ》きな鍋《なべ》に頬《ほゝ》が觸《さは》るばかりにしてふう/\と火《ひ》を吹《ふ》いた。鍋《なべ》のぐず/\と濁《にご》つた聲《こゑ》を立《た》てゝ居《ゐ》る間《あひだ》彼《かれ》は皺《しな》びた大《おほ》きな手《て》を火《ひ》に翳《かざ》しながら目《め》を蹙《しか》めて居《ゐ》た。彼《かれ》は凝然《ぢつ》と遠《とほ》くへ自分《じぶん》の心《こゝろ》を放《はな》つたやうにぽうつとして居《ゐ》ては復《また》思《おも》ひ出《だ》したやうに麁朶《そだ》をぽち/\と折《を》つて燻《く》べた。
 彼《かれ》は例年《いつ》になく身體《からだ》の窶《やつ》れが見《み》えた。かさ/\と乾燥《かんさう》した肌膚《はだへ》が一|般《ぱん》の老衰者《らうすゐしや》に通有《つういう》な哀《あは》れさを見《み》せて居《ゐ》るばかりでなく、其《その》大《おほ》きな身體《からだ》は肉《にく》が落《おち》てげつそりと肩《かた》がこけた。彼《かれ》は身體《からだ》の窶《やつ》れを自分《じぶん》でも知《し》つた。彼《かれ》は此《この》一|年《ねん》の間《あひだ》に持病《ぢびやう》の僂麻質斯《レウマチス》が執念《しふね》く骨《ほね》の何處《どこ》かを蝕《は》みつゝあるやうに感《かん》じた。暑《あつ》い季節《きせつ》になれば必《かなら》ず其《そ》の勢《いきほ》ひを潜《ひそ》めた持病《ぢびやう》が彼《かれ》を忘《わす》れて去《さ》らなかつた。
 鍋《なべ》の中《なか》は少《すこ》しぷんと焦《こげ》つく臭《にほひ》がした。彼《かれ》はお玉杓子《たまじやくし》で掻《か》き立《た》てた。鍋《なべ》の底《そこ》は手《て》を動《うご》かす毎《ごと》にぢり/\と鳴《な》つた。彼《かれ》は僅《わづか》に熱《あつ》い雜炊《ざふすゐ》が食道《しよくだう》を通過《つうくわ》して胃《ゐ》に落《お》ちつく時《とき》ほかりと感《かん》じた。さうして箸《はし》を措《を》いた後《のち》漸《やうや》く身體《からだ》に快《こゝろ》よい暖氣《だんき》の加《くは》はつたことを知《し》つた。少量《せうりやう》の水《みづ》を注《つい》だ鐵瓶《てつびん》の沸《わ》くのを彼《かれ》は復《また》凝然《ぢつ》として待《ま》つた。彼《かれ》は先刻《さつき》からどうかすると手《て》もとを探《さぐ》るやうにして煙草入《たばこいれ》を膝《ひざ》にした。煙草入《たばこいれ》は虚空《から》であつた。彼《かれ》は自分《じぶん》の體力《たいりよく》が滅切《めつきり》と減《へつ》て仕事《しごと》をするのに手《て》が利《き》かなくなつて、小遣錢《こづかひせん》の不足《ふそく》を感《かん》じた時《とき》、自棄《やけ》に成《な》つた心《こゝろ》から斷然《だんぜん》其《その》噛《か》む程《ほど》好《すき》な煙草《たばこ》を廢《よ》さうとした。彼《かれ》は悲慘《みじめ》な自分《じぶん》を自分《じぶん》が苛《いぢ》めてやるやうな心持《こゝろもち》を一|方《ぱう》には有《も》つた。一|方《ぱう》には又《また》無智《むち》な彼等《かれら》の伴侶《なかま》が能《よ》くするやうに彼《かれ》は持病《ぢびやう》の平癒《へいゆ》を佛《ほとけ》に祈《いの》つたのでもあつた。それが明日《あす》からといふ日《ひ》に彼《かれ》は其《その》残《のこ》つた煙草《たばこ》を殆《ほとん》ど一|日《にち》喫《す》ひ續《つゞ》けた。煙草入《たばこいれ》の叺《かます》を倒《さかさ》にして爪先《つまさき》でぱた/\と彈《はじ》いて少《すこ》しの粉《こ》でさへ餘《あま》さなかつた。其《その》後《のち》手《て》についた癖《くせ》が何《なに》かにつけては煙管《きせる》を掴《つか》ませるので、止《や》めたことを彼《かれ》は心《こゝろ》に悔《く》いることもあつた。然《しか》し彼《かれ》は又《また》直《すぐ》に佛《ほとけ》に對《たい》しての誓約《せいやく》を破《やぶ》ることに非常《ひじやう》な恐怖《きようふ》を懷《いだ》いた。彼《かれ》はどうしても斷念《だんねん》せねばならぬ心《こゝろ》の苦《くる》しみを紛《まぎ》らす爲《ため》に蕗《ふき》の葉《は》や桑《くは》の葉《は》を干《ほ》して煙管《きせる》の火皿《ひざら》につめて見《み》たが、どれでも煙草《たばこ》のやうに
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