《ひとまづ》自分《じぶん》の家《いへ》に歸《かへ》つた。卯平《うへい》も隣《となり》の森《もり》の陰翳《かげ》が一|杯《ぱい》に掩《おほ》うて居《ゐ》る狹《せま》い庭《には》に立《た》つた時《とき》は、勘次《かんじ》はおつぎを連《つ》れて開墾地《かいこんち》へ出《で》た後《あと》であつた。卯平《うへい》は庭《には》に立《た》つた儘《まゝ》、空虚《から》になつてさうして雨戸《あまど》が閉《とざ》してある勘次《かんじ》の家《いへ》を凝然《ぢつ》と見《み》た。家《いへ》は窶《やつ》れて居《ゐ》る。然《しか》しながら假令《たとひ》どうでも噺聲《はなしごゑ》が聞《きこ》えて青《あを》い煙《けぶり》が立《た》つて居《ゐ》れば、僅《わづか》でも血《ち》が循環《めぐ》つて居《ゐ》るものゝやうに活《い》きて見《み》えるのであるが、靜寂《ひつそり》と人氣《ひとけ》のなくなつた時《とき》は頽廢《たいはい》しつゝある其《その》建物《たてもの》の何處《どこ》にも生命《いのち》が保《たも》たれて居《ゐ》るとは見《み》られぬ程《ほど》悲《かな》しげであつた。卯平《うへい》が薄闇《うすぐら》い庭《には》の霜《しも》に下駄《げた》の趾《あと》をつけて出《で》てから間《ま》もなく勘次《かんじ》は褥《しとね》を蹴《け》つて竈《かまど》に火《ひ》を點《つけ》た。それからおつぎが朝餐《あさげ》の膳《ぜん》を据《す》ゑる迄《まで》には勘次《かんじ》はきりゝと仕事衣《しごとぎ》に換《かへ》て寒《さむ》さに少《すこ》し顫《ふる》へて居《ゐ》た。おつぎも箸《はし》を執《と》る時《とき》は股引《もゝひき》の端《はし》を藁《わら》で括《くゝ》つて置《お》いた。勘次《かんじ》は開墾《かいこん》の土地《とち》が年々《ねんねん》遠《とほ》くへ進《すゝ》んで行《い》つて、現在《いま》では例年《いつも》の面積《めんせき》では廣過《ひろすぎ》て居《ゐ》たことを心《こゝろ》づいたので、彼《かれ》は少《すこ》しの油斷《ゆだん》も出來《でき》なくなつた。彼《かれ》は毎日《まいにち》のやうにおつぎを連《つれ》て、唐鍬《たうぐは》で切《き》り起《おこ》した土《つち》の塊《かたまり》を萬能《まんのう》の背《せ》で叩《たゝ》いては解《ほぐ》して平坦《たひら》にならさせつゝあつたのである。
 卯平《うへい》は先《ま》づ勘次《かんじ》の戸口《とぐち》に近《ちか》づいた。表《おもて》の大戸《おほど》には錠《ぢやう》がおろしてあつた。鍵《かぎ》は固《もと》より勘次《かんじ》の腰《こし》を離《はな》れないことを知《し》つて卯平《うへい》は手《て》も掛《か》けて見《み》なかつた。彼《かれ》は又《また》裏戸《うらど》の口《くち》へ行《い》つて見《み》たが、掛金《かけがね》には栓《せん》を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]《さ》したと見《み》えて動《うご》かなかつた。卯平《うへい》はそれから懷手《ふところで》をした儘《まゝ》其《そ》の癖《くせ》の舌《した》を鳴《な》らしながら悠長《いうちやう》に自分《じぶん》の狹《せま》い戸口《とぐち》に立《た》つた。内《うち》は只《たゞ》陰氣《いんき》で出《で》る時《とき》に端《はし》を捲《まく》つた夜具《やぐ》も冷《つめ》たく成《な》つて居《ゐ》た。彼《かれ》は漸《やうや》く火鉢《ひばち》に麁朶《そだ》を燻《くべ》た。彼《かれ》は側《そば》に重箱《ぢゆうばこ》と小鍋《こなべ》とが置《お》かれてあるのを見《み》た。蓋《ふた》をとつたら重箱《ぢゆうばこ》には飯《めし》があつた。蓋《ふた》の裏《うら》には少《すこ》し濕《うるほ》ひを持《も》つて居《ゐ》た。其《そ》の朝《あさ》おつぎは知《し》らずに喚《よ》んだのであつたが、卯平《うへい》は居《ゐ》なかつた。それでおつぎは出《で》る時《とき》飯《めし》と汁《しる》とを卯平《うへい》の小屋《こや》へ置《お》いて行《い》つたのである。卯平《うへい》は兎《と》に角《かく》おつぎに喚《よ》ばれて毎朝《まいあさ》暖《あたゝ》かい飯《めし》と熱《あつ》い汁《しる》とに腹《はら》を拵《こしら》へつゝあつたのである。彼《かれ》は其《そ》の朝《あさ》は褞袍《どてら》を着《き》ても夜《よ》のまだ明《あ》けない内《うち》からの騷《さわ》ぎなので身體《からだ》が冷《ひ》えて居《ゐ》た。夫《それ》で彼《かれ》は家《うち》に歸《かへ》つたならば汁《しる》はどうでも、飯臺《はんだい》の中《なか》はまだ十|分《ぶん》に暖氣《だんき》を保《たも》つて居《ゐ》るだらうといふ希望《きばう》を懷《いだ》いて、戸《と》の開《あ》かないことにまでは思《おも》ひ至《いた》らなかつた。重箱《ぢゆうばこ》はもう冷《ひ》えて畢《しま》つた。彼《かれ》は仕方
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