聲《こゑ》が波《なみ》の如《ごと》く沈《しづ》んで復《ま》た起《おこ》つた。太鼓《たいこ》の撥《ばち》は強《つよ》く打《う》ち輕《かる》く打《う》ち、更《さら》に赤《あか》く塗《ぬ》つた胴《どう》をそつと打《う》つて、さうして又《また》だらり/\と強《つよ》く輕《かる》く打《う》つことを反覆《はんぷく》した。念佛《ねんぶつ》が畢《をは》るまでには段々《だん/\》と遠《とほ》い近《ちか》い木立《こだち》の輪郭《りんくわく》がくつきりとして青《あを》い蜜柑《みかん》の皮《かは》が日《ひ》に當《あた》つた部分《ぶぶん》から少《すこ》しづゝ彩《いろど》られて行《ゆ》くやうに東《ひがし》の空《そら》が薄《うす》く黄色《きいろ》に染《そま》つて段々《だん/\》にそれが濃《こ》く成《な》つて、さうして寒冷《ひやゝか》なうちにもほつかりと暖味《あたゝかみ》を持《も》つたやうに明《あか》るく成《な》つた。念佛《ねんぶつ》の濁《にご》つた聲《こゑ》も明《あか》るく響《ひゞ》いた。地上《ちじやう》を掩《おほ》うた霜《しも》が滅切《めつきり》と白《しろ》く見《み》えて寮《れう》の庭《には》に立《た》てられた天棚《てんだな》の粧飾《かざり》の赤《あか》や青《あを》の紙《かみ》が明瞭《はつきり》として來《き》た。中心《ちうしん》に一|本《ぽん》の青竹《あをだけ》が立《た》てられて其《そ》の先端《せんたん》は青《あを》と赤《あか》と黄《き》との襲《かさ》ねた色紙《いろがみ》で包《つゝ》んである。其《そ》の周圍《しうゐ》には此《こ》れも四|本《ほん》の青竹《あをだけ》が立《た》てられてそれには繩《なは》が張《は》つてある。繩《なは》には注連《しめ》のやうに刻《きざ》んだ其《そ》の赤《あか》や青《あを》や黄《き》の紙《かみ》が一|杯《ぱい》にひら/\と吊《つ》られてある。彼等《かれら》は昨日《きのふ》の内《うち》に一|切《さい》の粧飾《かざり》をして※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]《にはとり》の鳴《な》くのを待《ま》つたのである。其《その》天棚《てんだな》は以前《もと》は立派《りつぱ》な木《き》の柱《はしら》を丁度《ちやうど》小《ちひ》さな家《いへ》の棟上《むねあ》げでもしたやうな形《かたち》に組《く》まれたのであつた。現今《いま》ではそれが無《な》く成《な》つたといふのは、一|度《ど》此《こ》の地《ち》を襲《おそ》うた暴風《ばうふう》の爲《ため》に、厚《あつ》い草葺《くさぶき》の念佛寮《ねんぶつれう》はごつしやりと潰《つぶ》された。其《そ》の時《とき》は幾多《いくた》の民家《みんか》が猶且《やつぱり》非常《ひじやう》な慘害《さんがい》を蒙《かうむ》つて、村落《むら》の凡《すべ》ては自分《じぶん》の凌《しの》ぎが漸《やつ》とのことであつたので、殆《ほと》んど無用《むよう》である寮《れう》の再建《さいこん》を顧《かへり》みるものはなかつた。さういふ間《あひだ》に他人《たにん》の林《はやし》に鉈《なた》を入《い》れねば薪《たきゞ》が獲《え》られぬ貧乏《びんばふ》な百姓等《ひやくしやうら》がこそ/\と寮《れう》の木材《もくざい》を引《ひ》いた。漸《やつ》とのことで現今《いま》の寮《れう》が以前《いぜん》の幾分《いくぶん》の一の大《おほ》きさに再建《さいこん》されるまでには其《そ》の棚《たな》も無残《むざん》な鋸《のこぎり》の齒《は》に掛《かゝ》つて居《ゐ》たのである。それでも、老人等《としよりら》は念佛《ねんぶつ》の復活《ふくくわつ》したことに十|分《ぶん》の感謝《かんしや》と滿足《まんぞく》とを有《も》つた。彼等《かれら》はそこに老後《らうご》に於《お》ける無上《むじやう》の娯樂《ごらく》と慰藉《ゐしや》とを發見《はつけん》しつゝあるのである。
 太鼓《たいこ》が撥《ばち》と共《とも》にぽつさりと置《お》かれて悉皆《みんな》窮屈《きうくつ》な圍爐裏《ゐろり》の邊《あたり》に聚《あつま》つた。寮《れう》の内《うち》も明《あか》るく成《な》つて立《た》ち騰《のぼ》る焔《ほのほ》の光《ひかり》が稍《やゝ》消《け》されて來《き》た。近所《きんじよ》の百姓《ひやくしやう》の雨戸《あまど》を開《あ》ける音《おと》が性急《せいきふ》にがたぴしと聞《きこ》えた。庭《には》へおりた※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]《にはとり》が欠伸《あくび》でもするやうに身體《からだ》を反《そ》らしながら、放心《うつかり》して居《ゐ》てまだ鳴《な》き足《た》らなかつたといふ容子《ようす》をして喉《のど》の痛《いた》い程《ほど》鳴《な》くのが聞《きこ》えた。何處《どこ》の家《いへ》にも青《あを》い煙《けぶり》が廂《ひさし》を偃《は》うて騰《のぼ》つた。
 老人等《としよりら》は一先
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