け》の光《ひかり》はまだ行《ゆ》き渡《わた》らぬ。薄《うす》い蒲團《ふとん》にくるまつて居《ゐ》る百姓等《ひやくしやうら》の肌膚《はだ》には寒冷《かんれい》の氣《き》がしみ/″\と透《とほ》つて、睡眠《ねむり》に落《お》ちて居《ゐ》ながら、凡《すべ》てが顎《あご》を掩《おほ》ふまでは無意識《むいしき》に蒲團《ふとん》の端《はし》を引《ひ》いてもぢ/\と動《うご》く頃《ころ》であつた。かん/\と凍《こほ》つて鳴《な》る鉦《かね》の音《ね》が沈《しづ》んだ村落《むら》の空氣《くうき》に響《ひゞ》き渡《わた》つた。希望《きばう》と娯樂《ごらく》とに唆《そゝの》かされて待《ま》つて居《ゐ》た老人等《としよりら》は悉皆《みんな》、其《そ》の左《ひだり》の手《て》に提《さ》げて撞木《しゆもく》で叩《たゝ》いて居《ゐ》る鉦《かね》の響《ひびき》を後《おく》れるな急《いそ》げ/\と耳《みゝ》に聞《き》いた。老人《としより》は何處《どこ》の家《うち》からも一|齊《もい》に念佛寮《ねんぶつれう》を指《さ》して集《あつま》つた。彼等《かれら》は孰《いづ》れも、まだぐつすりと眠《ねむ》つて居《ゐ》る家族《かぞく》の者《もの》には竊《そつ》と支度《したく》をして、動《うご》けぬ程《ほど》褞袍《どてら》を襲《かさ》ねて節制《だらし》なく紐《ひも》を締《し》めて、表《おもて》の戸《と》を開《あ》けるとひやりとする曉《あけ》近《ちか》い外氣《ぐわいき》に白《しろ》い息《いき》を吹《ふ》きながら、大《おほ》きな塊《かたまり》が轉《ころ》がつて行《ゆ》くやうに其《そ》の姿《すがた》を運《はこ》んだ。彼等《かれら》は外《そと》の壁際《かべぎは》から麁朶《そだ》の一|把《は》を持《も》つて行《ゆ》く者《もの》も有《あ》つた。舊暦《きうれき》の二|月《ぐわつ》の半《なかば》に成《な》ると例年《れいねん》の如《ごと》く念佛《ねんぶつ》の集《あつま》りが有《あ》るのである。彼等《かれら》はそれが日輪《にちりん》に對《たい》する報謝《はうしや》を意味《いみ》して居《ゐ》るのでお天念佛《てんねんぶつ》というて居《ゐ》る。彼等《かれら》の口《くち》からさうして村落《むら》の一|般《ぱん》から訛《なま》つて「おで念佛《ねんぶつ》」と喚《よ》ばれた。先驅《さきがけ》の光《ひかり》が各自《てんで》の顏《かほ》を微明《ほのあか》るくして日《ひ》が地平線上《ちへいせんじやう》に其《そ》の輪郭《りんくわく》の一|端《たん》を現《あら》はさうとする時間《じかん》を誤《あやま》らずに彼等《かれら》は揃《そろ》つて念佛《ねんぶつ》を唱《とな》へる筈《はず》なので、まだ凡《すべ》てが夜《よ》の眠《ねむり》から離《はな》れぬ内《うち》に皆悉《みんな》口《くち》を嗽《すゝ》いで待《ま》つて居《ゐ》ねばならぬのである。念佛衆《ねんぶつしう》の内《うち》には選《えら》ばれて法願《ほふぐわん》と喚《よ》ばれて居《ゐ》る二人《ふたり》ばかりの爺《ぢい》さんが、難《むづ》かしくもない萬事《ばんじ》の世話《せわ》をした。法願《ほうぐわん》は凍《こほ》り相《さう》な手《て》に鉦《かね》を提《さ》げてちらほらと大《おほき》な塊《かたまり》のやうな姿《すがた》が動《うご》いて來《く》るまでは力《ちから》の限《かぎ》り辻《つじ》に立《た》つてかん/\と叩《たゝ》くのである。念佛寮《ねんぶつれう》の雨戸《あまど》は空洞《からり》と開《あ》け放《はな》たれて、殊更《ことさら》に身《み》に沁《し》む寒《さむ》さに圍爐裏《ゐろり》には麁朶《そだ》の火《ひ》が焔《ほのほ》を立《た》てた。蔓《つる》のある煤《すゝ》けた鐵瓶《てつびん》が自在鍵《じざいかぎ》から低《ひく》く垂《た》れて焔《ほのほ》を臀《しり》で抑《おさ》へた。ぐるりと圍《かこ》んだ老人《としより》の不恰好《ぶかくかう》な姿《すがた》を火《ひ》は明瞭《はつきり》と見《み》せた。軈《やが》て二|番※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]《ばんどり》が遠《とほ》く近《ちか》く鳴《な》いて時間《じかん》が來《き》た。法願《ほふぐわん》は閾《しきゐ》の側《そば》に太鼓《たいこ》を据《す》ゑて、其《そ》の後《うしろ》へ段々《だん/\》と一|同《どう》が坐《すわ》つて一|齊《せい》に聲《こゑ》を合《あは》せた。横《よこ》に据《す》ゑた太鼓《たいこ》を兩手《りやうて》に持《も》つた二|本《ほん》の撥《ばち》が兩方《りやうはう》から交互《かうご》に打《う》つて悠長《いうちやう》な鈍《にぶ》い響《ひゞき》を立《た》てた。撥《ばち》に合《あは》せる一|同《どう》の聲《こゑ》は皺《しな》びて痩《や》せた喉《のど》から出《で》る濁《にご》つた聲《こゑ》であつた。雜然《ざつぜん》たる其《そ》の
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