《かれ》の輕微《けいび》な瘡痍《きず》を假令《たとひ》表面《へうめん》だけでも好《い》いから思《おも》ひ切《き》つて重《おも》く見《み》てさうして彼《かれ》に同情《どうじやう》の言葉《ことば》を惜《をし》まないものを求《もと》めたが、彼《かれ》には些少《すこし》でも其《その》顛末《てんまつ》を聞《き》いてくれべきものは醫者《いしや》と南《みなみ》の亭主《ていしゆ》とより外《ほか》はなかつた。然《しか》し餘《あま》りに能《よ》く瘡痍《きず》其《その》物《もの》の性質《せいしつ》を識別《しきべつ》した醫者《いしや》は、彼《かれ》に其《その》果敢《はか》ない心《こゝろ》を訴《うつた》へる餘裕《よゆう》を與《あた》へずに彼《かれ》を頭《あたま》から壓《おさへ》る樣《やう》に揶揄《からか》うた。彼《かれ》は其處《そこ》に何物《なにもの》をも得《え》ないで遁《にげ》るやうに珊瑚樹《さんごじゆ》の木蔭《こかげ》を出《で》た。南《みなみ》の亭主《ていしゆ》も殊更《ことさら》に彼《かれ》に同情《どうじやう》して慰藉《ゐしや》の言辭《ことば》を惜《をし》まぬ程《ほど》其《その》心《こゝろ》が動《うご》かされなかつたのみでなく、彼《かれ》は寧《むし》ろ仲裁者《ちうさいしや》の地位《ちゐ》に立《た》たねば成《な》らぬことに幾分《いくぶん》の迷惑《めいわく》を感《かん》じた。勘次《かんじ》は決《けつ》して仲裁《ちうさい》を依頼《いらい》しなかつた。彼《かれ》は只《たゞ》自分《じぶん》の調子《てうし》に乘《の》つて噺《はなし》をしてくれることに滿足《まんぞく》を求《もと》めようとしたのみであつた。然《しか》しそれは悉《こと/″\》く徒勞《むだ》であつた。勘次《かんじ》は羞恥《しうち》と恐怖《きようふ》と憤懣《ふんまん》との情《じやう》を沸《わか》したが夫《それ》でも薄弱《はくじやく》な彼《かれ》は、それを僻《ひが》んだ目《め》に表現《へうげん》して逢《あ》ふ人《ひと》毎《ごと》に同情《どうじやう》してくれと強《し》ふるが如《ごと》く見《み》えるのみであつた。百姓《ひやくしやう》の凡《すべ》ては彼《かれ》の心《こゝろ》を推測《すゐそく》する程《ほど》鋭敏《えいびん》な目《め》を有《も》つて居《ゐ》なかつた。彼《かれ》は自棄《やけ》に態《わざ》と繃帶《ほうたい》の手《て》を抱《だ》いて數日間《すうじつかん》ぶら/\と遊《あそ》んで居《ゐ》た。忙《いそが》しい麥蒔《むぎまき》の季節《きせつ》が迫《せま》つて百姓《ひやくしやう》は悉《こと/″\》く畑《はたけ》へ出《で》て居《ゐ》るので晝間《ひるま》は彼《かれ》の相手《あひて》になるものがなかつたのみでなく、今《いま》に働《はたら》かずには居《を》られぬからと陰《かげ》で冷笑《れいせう》を浴《あ》びせて居《ゐ》るのであつた。此《こ》の季節《きせつ》を空《むね》しく費《つひや》すことが一|日《にち》でも非常《ひじやう》な損失《そんしつ》であるといふ見易《みやす》い利害《りがい》の打算《ださん》から彼《かれ》は到頭《たうとう》打《う》ち負《まか》されて復《また》一|所懸命《しよけんめい》に勞働《らうどう》に從事《じうじ》した。彼《かれ》はもう卯平《うへい》と一言《ひとこと》も口《くち》を利《き》かなくなつた。寡言《むくち》なむつゝりとした卯平《うへい》は固《もと》より勘次《かんじ》を顧《かへり》みようともしなかつた。おつぎはそれを心《こゝろ》に苦《くる》しんで見《み》たがそれは到底《たうてい》及《およ》ばぬことであつた。村落《むら》の内《うち》には卯平《うへい》との衝突《しようとつ》がぱつと又《また》傳播《でんぱ》された。然《しか》しそれは分別《ふんべつ》ある壯年《さうねん》の間《あひだ》にのみ解釋《かいしやく》し記憶《きおく》された。其《そ》の事件《じけん》の内容《ないよう》は勘次《かんじ》のおつぎに對《たい》する行爲《かうゐ》を猜忌《さいぎ》と嫉妬《しつと》との目《め》を以《もつ》て臆測《おくそく》を逞《たくま》しくするやうに興味《きようみ》を彼等《かれら》に與《あた》へなかつた。誰《だれ》も自分《じぶん》から彼等《かれら》の間《あひだ》に嘴《くちばし》を容《い》れようとはしない。遠《とほ》い以前《いぜん》から紛糾《こゞら》けて來《き》た互《たがひ》の感情《かんじやう》に根《ね》ざした事件《じけん》がどんな些少《させう》なことであらうとも、決《けつ》して快《こゝろ》よく解決《かいけつ》される筈《はず》でないことを知《し》つて居《ゐ》る人々《ひとびと》は幾《いく》ら愚《おろか》でも自《みづか》ら好《この》んで其《そ》の難局《なんきよく》に當《あた》らうとはしないのであつた。
二二
拂曉《よあ
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