とつちや見《み》られねえから俺《お》らも知《し》らねえでたな、そんぢやそらまあ、味噌《みそ》でも何《なん》でもさうえ理由《わけ》ぢやこつちのおとつゝあん好《す》きなやうに搗《つ》かせることにしてな、大豆《でえづ》はそれとつたしすつから行《や》る積《つもり》にせえなりや譯《わけ》ねえ噺《はなし》だな、さうしてこつちのおとつゝあん胸《むね》撫《な》でさつせえ、俺《お》れ惡《わ》りいこた云《ゆ》はねえから、なあこつちのおとつゝあん、そつちだこつちだやつちや誰《だれ》よりも子奴等《こめら》可哀想《かあいさう》だから、それに同《おな》じもんぢや東《ひがし》の旦那等《だんなら》が耳《みゝ》へは入《い》れたくねえから、さうしさつせえよなあ」南《みなみ》の亭主《ていしゆ》はさういつて心《こゝろ》では段々《だん/\》に臀《しり》ごみするのであつた。卯平《うへい》は再《ふたゝ》び煙管《きせる》を口《くち》にして沈默《ちんもく》した。南《みなみ》の亭主《ていしゆ》は勘次《かんじ》を卯平《うへい》の狹《せま》い戸口《とぐち》に導《みちび》いた。勘次《かんじ》は平常《いつも》ならば自分《じぶん》の心《こゝろ》から決《けつ》して形式的《けいしきてき》な和睦《わぼく》を希望《きばう》しなかつた筈《はず》である。彼《かれ》は反目《はんもく》して居《ゐ》るだけならば久《ひさ》しく馴《な》れて居《ゐ》た。然《しか》し彼《かれ》は從來《じゆうらい》嘗《かつ》てなかつた卯平《うへい》の行爲《かうゐ》に始《はじ》めて恐怖心《きようふしん》を懷《いだ》いたのであつた。
「そんぢやねえおとつゝあん、お互《たげえ》に斯《か》う根《ね》に持《も》たねえことにしてね、勘次《かんじ》さんおめえも忙《いそが》しくつて手《てえ》つけねえでたかも知《し》んねえが、麹《かうぢ》も鹽《しほ》まで切《き》つて有《あ》るつちんだから、後《あと》は豆《まめ》※[#「赭のつくり/火」、第3水準1−87−52]《に》るだけのことだし、味噌《みそ》は搗《つ》くことにしてな、斯《か》うえゝ鹽梅《あんべえ》にしてくれさつせえね、先刻《さつき》もいふ通《とほ》りそつちだこつちだねえやうにしなくちやねえ、こつちのおとつゝあん」南《みなみ》の亭主《ていしゆ》は二人《ふたり》を見較《みくら》べるやうにしていつた。勘次《かんじ》は卯平《うへい》の前《まへ》へ出《で》ては只《たゞ》首《くび》を俛《うなだ》れた。卯平《うへい》は凝然《ぢつ》と横《よこ》を向《む》いて勘次《かんじ》をちらりとも見《み》なかつた。彼《かれ》は從來《これまで》とは容子《ようす》が幾分《いくぶん》違《ちが》つて居《ゐ》た。彼《かれ》は其《そ》の癖《くせ》の舌《した》を鳴《な》らして居《ゐ》たが
「畜生奴《ちきしやうめ》」と只《たゞ》一言《ひとこと》いつた。さうして又《また》暫《しばら》く間《あひだ》を措《お》いて
「畜生《ちきしやう》つちはれんの口惜《くや》しけりや、口惜《くや》しいちつて見《み》た方《はう》がえゝ、原因《もと》はつちへば己奴《うの》が手出《てだ》しすんのが惡《わ》りいんだから」と低《ひく》く然《しか》も鋭《するど》く彼《かれ》は呟《つぶや》いて、芒《すゝき》で裂《さ》いたやうに口《くち》をぎつと閉《と》ぢて畢《しま》つた。勘次《かんじ》は刈《か》られた草《くさ》の如《ごと》く悄然《せうぜん》とした。
「こつちのおとつゝあん、そんぢや仕《し》やうねえよ、先刻《さつき》も俺《お》れそつから不承《ふしよう》してくろうつて堅《かた》しく云《ゆ》つたんだつけな、そんぢや俺《お》れも困《こま》つから其處《そこ》はお互《たげえ》にかう物《もの》は云《ゆ》はねえことにしてやつてくんなくつちやなあ」と南《みなみ》の亭主《ていしゆ》は一|旦《たん》橋渡《はしわた》しをすれば後《あと》は再《ふたゝ》びどうならうともそれは又《また》其《そ》の時《とき》だといふ心《こゝろ》から其處《そこ》は加《い》い加減《かげん》に繕《つくろ》うて遁《にげ》るやうに歸《かへ》つた。彼《かれ》はどちらからも依頼《いらい》された仲裁人《ちうさいにん》ではなかつた。彼等《かれら》は漸次《しば/\》家族《かぞく》の間《あひだ》の殊《こと》に夫婦《ふうふ》の爭《あらそ》ひに深入《ふかいり》して却《かへつ》て雙方《さうはう》から恨《うら》まれるやうな損《そん》な立場《たちば》に嵌《はま》つた經驗《けいけん》があるので、壞《こは》れた茶碗《ちやわん》をそつと合《あは》せるだけの手數《てすう》で巧《たくみ》に身《み》を引《ひ》く方法《はうはふ》と機會《きくわい》とを知《し》つて居《ゐ》た。黄昏《たそがれ》が彼《かれ》に其《そ》の機會《きくわい》を與《あた》へた。
 勘次《かんじ》は彼
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