え》で癒《なほ》つたもんでござんせうね、先生《せんせい》さん」百姓《ひやくしやう》は懸念《けねん》らしく聞《き》いた。
「さう直《す》ぐにや癒《なほ》らねえな」醫者《いしや》は無愛想《ぶあいそ》にいつた。百姓《ひやくしやう》は依然《いぜん》として蒼《あを》い顏《かほ》をしながら怪我人《けがにん》を脊負《しよ》つて歸《かへ》つて行《い》つた。それから二三|人《にん》の療治《れうぢ》が濟《す》んで勘次《かんじ》の番《ばん》に成《な》つた。
「此《こ》りや大層《たいそう》大事《だいじ》にしてあるな」醫者《いしや》は穢《きたな》い手拭《てぬぐひ》をとつて勘次《かんじ》の肘《ひぢ》を見《み》た。鐵《てつ》の火箸《ひばし》で打《う》つた趾《あと》が指《ゆび》の如《ごと》くほのかに膨《ふく》れて居《ゐ》た。
「どうしたんだえ此《こ》ら、夫婦喧嘩《ふうふげんくわ》でもしたか」醫者《いしや》は毎日《まいにち》百姓《ひやくしやう》を相手《あひて》にして碎《くだ》けて交際《つきあ》ふ習慣《しふくわん》がついて居《ゐ》るので、どつしりと大《おほ》きな身體《からだ》からかういふ戯談《じようだん》も出《で》るのであつた。
「なあにわしやはあ、嚊《かゝあ》に死《し》なれてから七八|年《ねん》にもなんでがすから」勘次《かんじ》は少《すこ》し苦笑《くせう》していつた。
「さうか、そんぢや誰《だれ》に打《ぶ》たれたえ、まあだ壯《さかり》だからそんでも何處《どこ》へか拵《こしら》えたかえ」輕微《けいび》な瘡痍《きず》を餘《あま》りに大袈裟《おほげさ》に包《つゝ》んだ勘次《かんじ》の容子《ようす》を心《こゝろ》から冷笑《れいせう》することを禁《きん》じなかつた醫者《いしや》はかう揶揄《からか》ひながら口髭《くちひげ》を捻《ひね》つた。
「先生《せんせい》さん戯談《じやうだん》いつて、なあにわしや爺樣《ぢいさま》に打《ぶ》たれたんでさ」勘次《かんじ》は只管《ひたすら》に醫者《いしや》の前《まへ》に追求《つゐきう》の壓迫《あつぱく》から遁《のが》れようとするやうにいつた。
 醫者《いしや》はそれからはもう默《だま》つて藥《くすり》を貼《は》つて形《かた》ばかりの繃帶《ほうたい》をした。
「先生《せんせい》さん、わしやまあだ來《き》なくつちやなりあんすめえか」勘次《かんじ》は懸念《けねん》らしい目《め》を以《もつ》て聞《き》いた。
「此《こ》の藥《くすり》をやるから、自分《じぶん》で貼《は》つた方《はう》がえゝ、此《こ》れで癒《なほ》るから」と醫者《いしや》は一袋《ひとふくろ》の藥《くすり》を與《あた》へた。勘次《かんじ》は一|度《ど》整骨醫《せいこつい》の門《もん》を潜《くゞ》つてからは、世間《せけん》には這※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《こんな》に怪我人《けがにん》の數《かず》が有《あ》るものだらうかと絶《た》えず驚愕《おどろき》と恐怖《おそれ》との念《ねん》に壓《あつ》せられて居《ゐ》たが、珊瑚樹《さんごじゆ》の繁茂《はんも》した木蔭《こかげ》から竹《たけ》の垣根《かきね》を往來《わうらい》へ出《で》た時《とき》彼《かれ》は身《み》も心《こゝろ》も俄《にはか》に輕《かる》くなつたことを感《かん》じた。彼《かれ》は小《ちひ》さな怪我人《けがにん》から聯想《れんさう》して此《こ》れも毎日《まいにち》庭《には》の木《き》を覘《ねら》つて居《ゐ》る與吉《よきち》を憂《うれ》へ出《だ》した。彼《かれ》は脚力《きやくりよく》の及《およ》ぶ限《かぎ》り歸途《きと》を急《いそ》いだ。彼《かれ》は行《ゆ》く/\午前《ごぜん》に見《み》て暫《しばら》く忘《わす》れて居《ゐ》た百姓《ひやくしやう》の活動《くわつどう》を再《ふたゝ》び目前《もくぜん》に見《み》せ付《つけ》られて隱《かく》れて居《ゐ》た憤懣《ふんまん》の情《じやう》が復《ま》た勃々《むか/\》と首《くび》を擡《もた》げた。彼《かれ》は自分《じぶん》の瘡痍《きず》が輕《かる》く醫者《いしや》から宣告《せんこく》された時《とき》は何《なん》となく安心《あんしん》されたのであつたが、然《しか》し又《また》漸次《だんだん》道程《みちのり》を運《はこ》びつゝ種々《いろいろ》な雜念《ざふねん》が湧《わ》くに連《つ》れて、失望《しつばう》と不滿足《ふまんぞく》を心《こゝろ》に懷《いだ》きはじめた。彼《かれ》は家《いへ》に歸《かへ》つた後《のち》瘡痍《きず》を重《おも》く見《み》せ掛《か》けようとするのには醫者《いしや》の診斷《しんだん》が寸毫《すんがう》も彼《かれ》に味方《みかた》して居《ゐ》なかつたからである。
 彼《かれ》の家《いへ》に歸《かへ》つたのは日《ひ》が西《にし》に連《つらな》
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