》の目《め》を放《はな》たないのである。孰《いづ》れにしても小《ちひ》さな船《ふね》は今《いま》冷《つめ》たい朝《あさ》の靜《しづ》けさを保《たもつ》て居《ゐ》るのである。只《たゞ》遙《はるか》に隔《へだ》つた村落《むら》の木立《こだち》の梢《こずゑ》から騰《のぼ》る炊煙《すゐえん》が冴《さ》えた冷《つめ》たい空《そら》に吸《す》ひこまれて居《ゐ》るのみで、其《そ》の小《ちひ》さな船《ふね》が中心點《ちうしんてん》をなして勘次《かんじ》の目《め》には一つも動《うご》く物《もの》を見《み》なかつた。彼《かれ》は暫《しばら》く又《また》凝然《ぢつ》として上流《じやうりう》の小船《こぶね》を見《み》て居《ゐ》た。彼《かれ》は氣《き》がついた時《とき》土手《どて》を一|散《さん》に北《きた》へ急《いそ》いだ。土手《どて》は軈《やが》て水田《すゐでん》に添《そ》うてうね/\と遠《とほ》く走《はし》つて居《ゐ》る。土手《どて》の道幅《みちはゞ》が狹《せま》くなつた。それは刈《か》られてぐつしやりと濕《しめ》つて居《ゐ》る稻《いね》が土手《どて》の芝《しば》の上《うへ》一|杯《ぱい》に干《ほ》されてあつたからである。稻《いね》はぼつ/\と簇《むらが》つて居《ゐ》る野茨《のばら》の株《かぶ》を除《のぞ》いて悉《こと/″\》く擴《ひろ》げられてある。野茨《のばら》の葉《は》はもう落《お》ちて畢《しま》つて、小《ちひ》さな枝《えだ》の先《さき》には赤《あか》いつやゝかな實《み》が一つづゝ翳《かざ》されて居《ゐ》る。草刈《くさかり》の鎌《かま》を遁《のが》れて確乎《しつか》と其《その》株《かぶ》の根《ね》に縋《すが》つた嫁菜《よめな》の花《はな》が刺立《とげだ》つた枝《えだ》に倚《よ》り掛《かゝ》りながらしつとりと朝《あさ》の濕《うるほ》ひを帶《おび》て居《ゐ》る。濡《ぬ》れた稻《いね》の臭《にほひ》が勘次《かんじ》の鼻《はな》を衝《つ》いた。螽《いなご》がぱら/\と足《あし》の響《ひゞき》に連《つ》れて稻《いね》を渉《わた》つて遁《にげ》た。彼《かれ》は其《その》干《ほ》された稻《いね》の穗先《ほさき》を攫《つか》んで籾《もみ》の幾粒《いくつぶ》かを手《て》に扱《しご》いて見《み》た。彼《かれ》は更《さら》に其《その》籾粒《もみつぶ》を齒《は》で噛《か》んで見《み》た。彼《かれ》は夫《それ》から又《また》一|散《さん》に走《はし》つた。彼《かれ》は少《すこ》しの間《ま》に酷《ひど》く暇《ひま》どつたやうに感《かん》じた。足《あし》には脚絆《きやはん》と草鞋《わらぢ》とを穿《はい》て背《せ》には蓙《ござ》を負《お》うて居《ゐ》る。蓙《ござ》は終《た》えず彼《かれ》の背後《はいご》にがさ/\と鳴《な》つて其《そ》の耳《みゝ》を騷《さわ》がした。彼《かれ》は遂《つひ》に土手《どて》から折《を》れて東《ひがし》へ/\と走《はし》つた。
村落《むら》がぽつり/\と木立《こだち》を形《かたど》つて居《ゐ》る外《ほか》には一|帶《たい》に只《たゞ》連續《れんぞく》して居《ゐ》る水田《すゐでん》を貫《つらぬ》いて道《みち》は遙《はるか》に遠《とほ》く、ひつゝいたやうな臺地《だいち》の林《はやし》を望《のぞ》んで一|直線《ちよくせん》である。彼《かれ》は嘗《かつ》て其處《そこ》を歩《ある》いたことはあつた。然《しか》し彼《かれ》の知《し》つてるのは幾屈曲《いくくつきよく》をなして居《ゐ》た當時《たうじ》である。彼《かれ》は何時《いつ》の間《ま》にか極端《きよくたん》に人工的《じんこうてき》の整理《せいり》を施《ほどこ》された耕地《かうち》に驚愕《おどろき》の目《め》を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》つた。彼《かれ》は溝渠《こうきよ》の井然《せいぜん》として居《ゐ》るのに見惚《みと》れて畢《しま》つた。
日《ひ》は漸《やうや》く朝《あさ》を離《はな》れて空《そら》に居据《ゐすわ》つた。凡《すべ》ての物《もの》が明《あか》るい光《ひかり》を添《そ》へた。然《しか》しながら周圍《しうゐ》の何處《いづこ》にも活々《いき/\》した緑《みどり》は絶《た》えて目《め》に映《うつ》らなかつた。まだ幾《いく》らも刈《か》られてない田《た》は、黄褐色《くわうかつしよく》の明《あか》るい光《ひかり》を反射《はんしや》して、處々《しよ/\》の畑《はたけ》に仕《あ》る桑《くは》も、霜《しも》に逢《あ》ふまではと梢《こずゑ》の小《ちひ》さな軟《やはら》かな葉《は》の四五|枚《まい》が潤《うるほ》ひを有《も》つて居《ゐ》るのみである。ぽつ/\と簇《むらが》つた村落《むら》の木立《こだち》の孰《いづ》れも悉《こと/″\》く赭《あか》いくすんだ葉《は》を以《もつ》て掩《おほ》
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