《さは》つて立《た》つて居《ゐ》る身體《からだ》がぐらりと後《うしろ》へ倒《たふ》れ相《さう》に成《な》つた。勘次《かんじ》は船頭《せんどう》が態《わざ》と自分《じぶん》を突《つ》きのめしたものゝやうに感《かん》じて酷《ひど》く手頼《たより》ない心持《こゝろもち》がした。彼《かれ》は凝然《ぢつ》と屈《かゞ》んで船頭《せんどう》の操《あやつ》る儘《まゝ》に任《まか》せた。中央《ちうあう》の大《おほ》きな洲《す》から續《つゞ》く淺瀬《あさせ》に支《さゝ》へられて船《ふね》は例《いつも》の處《ところ》へは着《つ》けられなく成《な》つて居《ゐ》る。只《たゞ》一人《ひとり》の乘客《じようかく》である勘次《かんじ》は船頭《せんどう》の勝手《かつて》な處《ところ》へおろされたやうに思《おも》つた。河楊《かはやなぎ》が痩《や》せて、赤《あか》い實《み》を隱《かく》した枸杞《くこ》の枝《えだ》がぽつさりと垂《た》れて、大《おほ》きな蓼《たで》の葉《は》が黄色《きいろ》くなつて居《ゐ》る岸《きし》へ船《ふね》はがさりと舳《へさき》を突《つ》つ込《こ》んだのである。それでも其處《そこ》にはもう幾度《いくたび》か船《ふね》がつけられたと見《み》えて足趾《あしあと》らしいのが階段《かいだん》のやうに形《かたち》づけられてある。勘次《かんじ》は河楊《かはやなぎ》の枝《えだ》に手《て》を掛《か》けて他人《ひと》の足趾《あしあと》を踏《ふ》んだ。枝《えだ》や葉《は》がざら/\と彼《かれ》の蓙《ござ》に觸《ふ》れて鳴《な》つた。彼《かれ》は三足目《みあしめ》に岸《きし》に立《た》つた。岸《きし》は畑《はたけ》で、洪水《こうずゐ》が齎《もたら》した灰《はひ》に似《に》てる泥《えごみ》が一|杯《ぱい》に乾《かわ》いて大《おほ》きな龜裂《きれつ》を生《しやう》じて居《ゐ》る。周圍《しうゐ》の蜀黍《もろこし》が穗《ほ》を伐《き》られた儘《まゝ》、少《すこ》し遠《とほ》くはぼんやりとして此《こ》れも霧《きり》の中《なか》に悄然《ぽつさり》と立《た》つて居《ゐ》る。勘次《かんじ》が顧《ふりかへ》つた時《とき》、彼《かれ》を打棄《うつちや》つた船《ふね》は沈《しづ》んだ霧《きり》に隔《へだ》てられて見《み》えなかつた。彼《かれ》は蜀黍《もろこし》の幹《から》に添《そ》うて足趾《あしあと》に從《したが》つて遙《はるか》に土手《どて》の往來《わうらい》へ出《で》た。霧《きり》が一|遍《ぺん》に晴《は》れた。彼《かれ》は何《なに》かに騙《だま》された後《あと》のやうに空洞《からり》とした周圍《しうゐ》をぐるりと見廻《みまは》さない譯《わけ》にはいかなかつた。彼《かれ》は沿岸《えんがん》の洪水後《こうずゐじ》の變化《へんくわ》に驚愕《おどろき》の目《め》を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》つた。偶然《ひよつと》彼《かれ》は俄《にはか》に透明《とうめい》に成《な》つた空氣《くうき》の中《なか》から驅《かけ》つて來《き》て網膜《まうまく》の底《そこ》にひつゝいたものゝやうにぽつちりと一つ目《め》についたものがある。それは遠《とほ》い上流《じやうりう》に繋《かゝ》つて居《ゐ》る小《ちひ》さな船《ふね》であつた。
其處《そこ》には數本《すうほん》の竹竿《たけざを》が立《た》てられてあるのも同時《どうじ》に彼《かれ》の目《め》に入《い》つた。彼《かれ》は直《す》ぐにそれが鮭捕船《さけとりぶね》であることを知《し》つた。漁夫《ぎよふ》は鮭《さけ》が深夜《しんや》に網《あみ》に懸《かゝ》るのを待《ま》ちつゝ、假令《たとひ》連夜《れんや》に渡《わた》つてそれが空《むな》しからうともぽつちりとさへ眠《ねむ》ることなく、又《また》獲物《えもの》が鋭《するど》く水《みづ》を切《き》つて進《すゝ》んで來《く》るのを彼等《かれら》の敏捷《びんせふ》な目《め》が闇夜《あんや》にも必《かなら》ず逸《いつ》することなく、接近《せつきん》した一|刹那《せつな》彼等《かれら》は水中《すゐちう》に躍《をど》つて機敏《きびん》に網《あみ》を以《もつ》て獲物《えもの》を卷《ま》くのである。彼等《かれら》は夜《よ》が明《あ》けると銀《ぎん》の如《ごと》く光《ひか》つて居《ゐ》る獲物《えもの》が一|尾《ぴ》でも船《ふね》に在《あ》ればそれを青竹《あをだけ》の葉《は》に包《つゝ》んで威勢《ゐせい》よく擔《かつ》いで出《で》る。さもなければ怜悧《りこう》な鮭《さけ》が澱《よど》みに隱《かく》れて動《うご》かぬ白晝《ひる》の間《あひだ》のみぐつたりと疲《つか》れた身體《からだ》に僅《わづか》に一|睡《すい》を偸《ぬす》むに過《す》ぎないので、朝《あさ》の明《あか》るく白《しろ》い水《みづ》にさへ凝然《ぢつ》と其《そ
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