も》に落《お》ちて殆《ほとん》ど直射《ちよくしや》する日光《につくわう》を遮《さへぎ》つて居《ゐ》る栗《くり》の木《き》の陰《かげ》から遠《とほ》ざかつて遙《はるか》に先《さき》の方《はう》まで轉《ころ》がつて行《ゆ》く。小麥《こむぎ》と違《ちが》つて濕《しめ》つぽい夏蕎麥《なつそば》は幹《から》がくた/\として幾度《いくど》も叩《たゝ》きつけねばなか/\落《お》ちない。それでも種子《み》は不規則《ふきそく》な成熟《せいじゆく》をして居《ゐ》るので、まだ青《あを》いのはどうしてもしがみ附《つ》いて居《ゐ》る。二人《ふたり》は藁《わら》で縛《くゝ》つた大《おほ》きな束《たば》を解《と》いては粘《ねば》つた物《もの》でも引《ひ》き剥《はが》す樣《やう》に攫《つか》み取《と》つて熱心《ねつしん》に忙《せは》しく臼《うす》の腹《はら》へ叩《たゝ》きつけた。庭《には》は卯平《うへい》が始終《しじゆ》草《くさ》を※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《むし》つて掃除《さうぢ》してあるのに、蕎麥《そば》を打《う》つ前《まへ》に一|旦《たん》丁寧《ていねい》に箒《はうき》が渡《わた》つたので見《み》るから清潔《せいけつ》に成《な》つて居《ゐ》たのである。勘次《かんじ》は暑《あつ》いので紺《こん》の襦袢《じゆばん》も腰《こし》のあたりへだらりとこかして、焦《こげ》たやうな肌膚《はだ》をさらけ出《だ》して居《ゐ》る。彼《かれ》は更《さら》に栗《くり》の木《き》の茂《しげ》つた葉《は》の間《あひだ》から針《はり》の先《さき》で突《つ》くやうにぽちり/\と洩《も》れて射《さ》す光《ひかり》を避《さ》けて例《いつ》もの如《ごと》く藺草《ゐぐさ》の編笠《あみがさ》を被《かぶ》つて、麻《あさ》の紐《ひも》を顎《あご》でぎつと結《むす》んである。毎日《まいにち》必《かなら》ず汗《あせ》でぐつしりと濕《しめ》るので、其《そ》の強靱《きやうじん》な纎維《せんゐ》の力《ちから》が脆《もろ》く成《な》つて、秋《あき》の冷《つめ》たい季節《きせつ》までにはどうしても中途《ちうと》で一|度《ど》は換《か》へねばならぬと勘次《かんじ》が自慢《じまん》して居《ゐ》る紐《ひも》は埃《ほこり》が加《くは》はつて汚《よご》れて居《ゐ》た。勘次《かんじ》はおつたの姿《すがた》をちらりと垣根《かきね》の入口《いりぐち》に見《み》た時《とき》不快《ふくわい》な目《め》を蹙《しが》めて知《し》らぬ容子《ようす》を粧《よそほ》ひながら只管《ひたすら》蕎麥《そば》の幹《から》に力《ちから》を注《そゝ》いだのであつた。おつたは稍《やゝ》褐色《ちやいろ》に腿《さ》めた毛繻子《けじゆす》の洋傘《かうもり》を肩《かた》に打《ぶ》つ掛《か》けた儘《まゝ》其處《そこ》らに零《こぼ》れた蕎麥《そば》の種子《み》を蹂《ふ》まぬ樣《やう》に注意《ちうい》しつゝ勘次《かんじ》の横手《よこて》へ立《た》ち止《どま》つた。おつたは幾年《いくねん》か以前《まへ》の仕立《したて》と見《み》える滅多《めつた》にない大形《おほがた》の鳴海絞《なるみしぼ》りの浴衣《ゆかた》を片肌脱《かたはだぬぎ》にして左《ひだり》の袖口《そでぐち》がだらりと膝《ひざ》の下《した》まで垂《た》れて居《ゐ》る。裾《すそ》は片隅《かたすみ》を端折《はしよ》つて外《そと》から帶《おび》へ挾《はさ》んだ。勘次《かんじ》は何處《どこ》までも知《し》らぬ容子《ようす》を保《たも》つことは出來《でき》なかつた。彼《かれ》はおつたの態《わざ》とらしい聲《こゑ》も聞《き》かず、又《また》近《ちか》く立《た》つた其《そ》の姿《すがた》を眼《め》に映《うつ》さない譯《わけ》には行《ゆ》かなかつた。彼《かれ》は蕎麥《そば》を攫《つか》むのを止《や》めておつたの方《はう》を向《む》いた。彼《かれ》は蹙《しが》めて居《ゐ》た顏《かほ》に少《すこ》し極《きま》りの惡相《わるさう》な一|種《しゆ》の表情《へうじやう》を浮《うか》べた。
「何《なん》でえ※[#「姉」の正字、「女+※[#第3水準1−85−57]のつくり」、277−15]等《あねら》」勘次《かんじ》は無意識《むいしき》にさういつた。彼《かれ》の胸《むね》のあたりに湧《わ》き出《いづ》る汗《あせ》は、僅《わづか》に曲折《きよくせつ》をなしつゝ幾筋《いくすぢ》かの流《なが》るゝ途《みち》を作《つく》つて居《ゐ》る。其處《そこ》には蕎麥《そば》の幹《から》から知《し》られぬ程《ほど》づつ立《た》つ埃《ほこり》が付《つ》いて濕《しめ》つて居《ゐ》る。ぢり/\と汗腺《かんせん》から搾《しぼ》れ出《いづ》る汗《あせ》が其《そ》の趾《あと》つけられた流《なが》れの途《みち》を絶《た》たないで其處《そこ》だけ蕎麥《そば》
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