おつぎは八釜敷《やかましく》勘次《かんじ》に使《つか》はれて晝《ひる》の間《あひだ》は寸暇《すんか》もなかつた。夜《よ》がひつそりとする頃《ころ》はおつぎは能《よ》く卯平《うへい》の小屋《こや》へ來《き》て惱《なや》んで居《ゐ》る腰《こし》を揉《も》んでやつた。おつぎは卯平《うへい》を勦《いたは》るには幾《いく》ら勘次《かんじ》が八釜敷《やかましく》ても一々|斷《ことわ》りをいうては出《で》なかつた。勘次《かんじ》はおつぎが暫時《しばし》でも居《ゐ》なくなると假令《たとひ》卯平《うへい》の側《そば》に居《ゐ》るとは知《し》つても
「おつう」と例《いつも》のやうに激《はげ》しく呶鳴《どな》つて見《み》るのである。
「此處《こゝ》に居《ゐ》たよ、そんなに喚《よ》ばらなくつたつてえゝから、何《なん》だかおとつゝあは」おつぎの勘次《かんじ》を叱《しか》る聲《こゑ》は軟《やはら》かでさうして明瞭《めいれう》に勘次《かんじ》の耳《みゝ》に響《ひび》いた。勘次《かんじ》は手《て》ランプの光《ひかり》に只《たゞ》目《め》が酷《ひど》く光《ひか》るのみで一|言《ごん》もなく屏息《へいそく》して畢《しま》ふのである。彼《かれ》は又《また》暫《しばら》くして大戸《おほど》をがらりと勢《いきほ》ひよく開《あ》けて出《で》ては又《また》少《すこ》し隙間《すき》を残《のこ》して大戸《おほど》を引《ひ》いて丁度《ちやうど》内《うち》へ還《かへ》つたと見《み》せて、殆《ほと》んど壁《かべ》に接《せつ》した卯平《うへい》の戸口《とぐち》に近《ちか》く立《た》つて見《み》るのである。手《て》ランプも點《つ》けぬ卯平《うへい》の狹《せま》い小屋《こや》の空氣《くうき》は黒《くろ》く悄然《ひつそり》として死《し》んだ樣《やう》である。勘次《かんじ》は拔《ぬ》き足《あし》して戻《もど》つては出來《でき》るだけ靜《しづか》に戸《と》を閉《と》ぢる。非常《ひじやう》に不平《ふへい》な相形《さうぎやう》をして居《ゐ》ても勘次《かんじ》はおつぎが歸《かへ》ると直《すぐ》に機嫌《きげん》が直《なほ》つて
「汝《わ》りやそんなに夜更《よふか》しするもんぢやねえ」と勦《いた》はるやうな窘《たしな》めるやうな調子《てうし》ていつて見《み》るのである。さうすると、
「明日《あした》の障《さは》りにでも成《な》りやしめえし管《かま》あこたあんめえな、おとつゝあは」といつておつぎは勘次《かんじ》を壓《お》しつけて畢《しま》ふのである。
卯平《うへい》はおつぎが看病《かんびやう》に來《く》る時《とき》は大抵《たいてい》
「汝《わ》りやえゝよ」といふのが例《れい》である。彼《かれ》は勘次《かんじ》に遠慮《ゑんりよ》をするのではなくて、おつぎがぶつ/\いはれるのを懸念《けねん》するのであつた。それでも卯平《うへい》は心《こゝろ》竊《ひそか》におつぎを待《ま》ちつゝあつた。彼《かれ》が惱《なや》まされた僂麻質斯《レウマチス》は病氣《びやうき》の性質《せいしつ》として彼《かれ》の頑丈《ぐわんぢやう》な身體《からだ》から其《そ》の生命《せいめい》を奪《うば》ひ去《さ》るまでに力《ちから》を逞《たくま》しくすることはなく、起《おこ》つたり和《やはら》いだりして彼《かれ》が歸《かへ》つてから二|度目《どめ》の冬《ふゆ》も一日々々《いちにち/\》と短《みじか》い日《ひ》を刻《きざ》んで行《い》つた。
狹苦《せまくる》しい掘立小屋《ほつたてごや》は彼《かれ》が當初《はじめ》に思《おも》ひ込《こ》んだ程《ほど》彼《かれ》の爲《ため》に幸《さいはひ》な處《ところ》ではなかつた。
一九
「おゝ暑《あつ》え/\、なんち暑《あつ》えこつたかな」おつたは前駒《まへこま》の下駄《げた》を引《ひ》き擦《ず》つて
「おや/\まあ能《よ》く斯《か》うなあ、何處《どこ》にも草《くさ》だら一《ひと》つなくつて、見《み》ても晴々《せえ/\》とする樣《やう》だ」と態《わざ》とらしい樣《やう》にいつて庭《には》に立《た》つた。さうしてから
「たんと穫《と》れべえなこんぢや、幹《から》ばかしでもたえした出來《でき》だな」といつて勘次《かんじ》に近《ちか》く歩《ほ》を運《はこ》んだ。勘次《かんじ》は庭先《にはさき》の栗《くり》の木《き》の陰《かげ》へ二《ふた》つの臼《うす》を横《よこ》に轉《ころ》がしておつぎと二人《ふたり》で夏蕎麥《なつそば》を打《う》つて居《ゐ》た。夏蕎麥《なつそば》は小麥《こむぎ》でも打《う》つ樣《やう》に一《ひと》つ攫《つか》んでは肩《かた》から背負《せお》ふやうにして臼《うす》の腹《はら》へ叩《たゝ》きつけると三|稜形《りようけい》の種子《み》がまだ少《すこ》し青《あを》い葉《は》と共《と
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