》るのだとは知《し》らないで、寧《むし》ろ老人《らうじん》に通有《つういう》な倦怠《けんたい》に伴《ともな》ふ睡眠《すゐみん》を貪《むさぼ》つて居《ゐ》るのだらう位《ぐらゐ》に見《み》るのであつた。枕元《まくらもと》の火鉢《ひばち》は戸口《とぐち》からでは彼《かれ》の薄《うす》い白髮《しらが》の頭《あたま》を掩《おほ》うて居《ゐ》た。彼《かれ》はさうかと思《おも》ふと起《お》きて一|心《しん》に草鞋《わらぢ》を作《つく》ることがある。彼《かれ》の仕事《しごと》は老衰《らうすゐ》して面倒《めんだう》な樣《やう》であるが、其《そ》の天性《てんせい》の器用《きよう》は失《うしな》はれなかつた。彼《かれ》は五|足《そく》づつを一《ひと》つに束《たば》ねた草鞋《わらぢ》とそれから繩《なは》が一荷物《ひとにもつ》に成《な》ると大風呂敷《おほぶろしき》で脊負《しよ》つて出《で》た。それは大抵《たいてい》暖《あたゝ》かな日《ひ》に限《かぎ》られて居《ゐ》るのであつたが、其《その》時《とき》は彼《かれ》の大《おほ》きな躯幹《からだ》はきりゝと帶《おび》を締《し》めて、股引《もゝひき》の上《うへ》に高《たか》く尻《しり》を端折《はしよ》つてまだ頼母《たのも》しげにがつしりとして見《み》えるのであつた。
卯平《うへい》は斯《か》うして仕事《しごと》をして見《み》たり寐《ね》て見《み》たり、それから自分《じぶん》で小鍋立《こなべだて》をするかと思《おも》へば家族《かぞく》三|人《にん》と共《とも》に膳《ぜん》へ向《むか》つたり、側《そば》から見《み》て居《ゐ》る勘次《かんじ》には氣《き》が知《し》れぬ爺《ぢい》さんであつた。卯平《うへい》は時々《とき/″\》鹽鮭《しほざけ》の一切《ひときれ》を古新聞紙《ふるしんぶんし》の端《はし》へ包《つゝ》んで來《き》ては火鉢《ひばち》へ鐵《てつ》の火箸《ひばし》を渡《わた》して、少《すこ》し燻《いぶ》る麁朶《そだ》の火《ひ》に燒《や》いた。彼《かれ》は危險《あぶな》い手《て》もとで間違《まちが》つて落《おと》しては灰《はひ》にくるまつても口《くち》でふう/\と吹《ふ》いて手《て》でばた/\と叩《たゝ》くのみで洗《あら》ふこともしなかつた。じり/\と白《しろ》く火箸《ひばし》へ燒《や》け附《つ》いた鹽《しほ》が長《なが》く火箸《ひばし》に臭氣《しうき》を止《と》めた。勘次《かんじ》は小屋《こや》で卯平《うへい》が鹽鮭《しほざけ》を燒《や》く臭《にほひ》を嗅《か》いでは一|種《しゆ》の刺戟《しげき》を感《かん》ずると共《とも》に卯平《うへい》を嫉《にく》むやうな不快《ふくわい》の念《ねん》がどうかすると遂《つひ》起《おこ》つた。それだが卯平《うへい》は又《また》獨《ひとり》でむつゝりと蒲團《ふとん》にくるまつて居《ゐ》る時《とき》は父子《おやこ》三|人《にん》の噺《はなし》が能《よ》く聞《きこ》えた。彼《かれ》は自分《じぶん》が一|緒《しよ》に居《ゐ》る時《とき》は互《たがひ》に隔《へだ》てが有相《ありさう》で居《ゐ》て、自分《じぶん》が離《はな》れると俄《にはか》に陸《むつ》まじ相《さう》に笑語《さゝや》くものゝ樣《やう》に彼《かれ》は久《ひさ》しい前《まえ》から思《おも》つて居《ゐ》た。其《それ》を聞《き》くと彼《かれ》は一|種《しゆ》の嫉妬《しつと》を伴《ともな》うた厭《いや》な心持《こゝろもち》に成《な》つて、蒲團《ふとん》を深《ふか》く被《かぶ》つて見《み》ても何《なん》となく耳《みゝ》について、おつぎの一寸《ちよつと》甘《あま》えた樣《やう》な聲《こゑ》や與吉《よきち》の無遠慮《ぶゑんりよ》な無邪氣《むじやき》な聲《こゑ》を聞《き》くと一|方《ぱう》には又《また》彼等《かれら》の家族《かぞく》と一つに成《な》りたいやうな心持《こゝろもち》も起《おこ》るし、彼《かれ》は凝然《ぢつ》と眼《め》を閉《と》ぢて居《ゐ》るので頭《あたま》の中《なか》が餘計《よけい》に紛糾《こぐら》かつて、種々《いろ/\》な状態《じやうたい》が明瞭《はつきり》と目先《めさき》にちらついてしみ/″\と悲《かな》しい樣《やう》に成《な》つて見《み》たりして猶更《なほさら》に僂麻質斯《レウマチス》の疼痛《いたみ》がぢり/\と自分《じぶん》の身體《からだ》を引緊《ひきし》めて畢《しま》ふ樣《やう》にも感《かん》ぜられた。彼《かれ》はさういふ時《とき》おつぎでも與吉《よきち》でも
「爺《ぢい》よう」と喚《よ》んでくれゝばふいと懶《ものう》い首《くび》を擡《もた》げて明《あか》るい白晝《はくちう》の光《ひかり》を見《み》ることによつて何《なん》とも知《し》れぬ嬉《うれ》しさに涙《なみだ》が一|杯《ぱい》に漲《みなぎ》ることもあるのであつた。
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