《きせつ》は雨《あめ》に濕《しめ》つた土《つち》へ稀《まれ》にかつと暑《あつ》い日《ひ》の光《ひかり》が投《な》げられて、日歸《ひがへ》りの空《そら》が強健《きやうけん》な百姓《ひやくしやう》の肌膚《はだ》にさへぞく/\と空氣《くうき》の冷《ひやゝ》かさを感《かん》ぜしめて、更《さら》にじめ/\と霧《きり》のやうな雨《あめ》が斜《なゝめ》に降《ふ》り掛《か》けては軟《やはら》かに首《くび》を擡《もた》げはじめた麥《むぎ》の穗《ほ》の芒《のげ》に微細《びさい》な水球《すゐきう》を宿《やど》して白《しろ》い穗先《ほさき》を更《さら》に白《しろ》くして世間《せけん》が只《たゞ》濕《しめ》つぽく成《な》つたかと思《おも》ふと、又《また》かつと日《ひ》の光《ひかり》が射《さ》して、空洞《からり》と明《あか》るく成《な》つて畑《はたけ》にはしどろに倒《たふ》れ掛《かけ》た豌豆《ゑんどう》の花《はな》も心《こゝろ》よげに首《くび》を擡《もた》げて微笑《びせう》する。さうすると畑《はた》を包《つゝ》む遠《とほ》い近《ちか》い林《はやし》には嫩葉《わかば》の隙間《すきま》から少《すくな》い日《ひ》の光《ひかり》がまた軟《やはら》かなさうして稍《やゝ》深《ふか》い草《くさ》の上《うへ》にぽつり/\と明《あか》るく覗《のぞ》き込《こん》で、松《まつ》の木《き》からはみんみん蝉《ぜみ》の樣《やう》な松蝉《まつぜみ》の聲《こゑ》が擽《くすぐ》つたい程《ほど》人《ひと》の鼓膜《こまく》に輕《かる》く響《ひゞ》いて凡《すべ》ての心《こゝろ》を衝動《しようどう》する。卯平《うへい》も他《た》の百姓《ひやくしやう》に誘《さそ》はれたやうに只《たゞ》其《その》身《み》を凝然《ぢつ》とさせてのみは居《を》られなかつた。他人《ひと》に倍《ばい》して忙《せは》しい勘次《かんじ》がだん/\に減《へ》りつゝある俵《たわら》の内容《ないよう》を苦《く》にして酷《ひど》い目《め》をしつゝ戸口《とぐち》を出入《でいり》するのを卯平《うへい》は見《み》るのが厭《いや》で且《かつ》辛《つら》かつた。それで彼《かれ》は其處《そこ》ら此處《ここ》らと他人《たにん》の仕事《しごと》を求《もと》めて歩《ある》いたのであつた。
卯平《うへい》は見《み》るから不器用《ぶきよう》な容子《ようす》をして居《ゐ》て、恐《おそ》ろしく手先《てさき》の業《わざ》の器用《きよう》な性來《たち》であつた。それで彼《かれ》は仕事《しごと》に出《で》ると成《な》つてからは方々《はう/″\》へ傭《やと》はれて能《よ》く俵《たわら》を編《あ》んだ。麥俵《むぎだわら》もそれから堆肥《つみごえ》を入《い》れて運《はこ》ぶ肥俵《こやしだわら》も編《あ》んだ。ゆつくりと然《しか》も暇《ひま》なく手《て》を動《うご》かしては時々《とき/″\》好《すき》な煙草《たばこ》を吸《す》うて少《すこ》し口《くち》を開《あ》いた儘《まゝ》煙管《きせる》の吸口《すひくち》をこけた頬《ほゝ》に當《あて》て深《ふか》い考《かんが》へにでも惱《なや》んだ樣《やう》に只《たゞ》凝然《ぢつ》として居《ゐ》る。煙《けぶり》は口《くち》から少《すこ》しづゝ漏《も》れて鼻《はな》を傳《つた》ひて騰《あが》る。彼《かれ》は煙《けぶり》が騰《あが》る度《たび》に窪《くぼ》んだ黄色《きいろ》な目《め》を蹙《しが》めるやうにして、心《こゝろ》づいた樣《やう》に吸殼《すひがら》を手《て》の平《ひら》に吹《ふ》くのである。彼《かれ》はかうして極《きは》めて悠長《いうちやう》に手《て》を動《うご》かす樣《やう》でありながら、それでも傭《やと》はれた先《さき》で其《そ》の日《ひ》の扶持《ふち》はして貰《もら》ふので、相應《さうおう》な錢《ぜに》を獲《え》つゝあるのであつた。
卯平《うへい》は夏《なつ》になれば何處《どこ》でも忙《いそが》しい麥扱《むぎこき》や陸稻《をかぼ》の草取《くさとり》に傭《やと》はれた。彼《かれ》は自分《じぶん》の村落《むら》を離《はな》れて五|日《か》も六|日《か》も泊《とま》つて居《ゐ》て歸《かへ》らぬことがある。卯平《うへい》には先《さき》から先《さき》と歩《ある》いて居《ゐ》ることが却《かへつ》て幸《さいは》ひであつた。彼《かれ》は鬼怒川《きぬがは》の高瀬船《たかせぶね》の船頭《せんどう》の衣物《きもの》かと思《おも》ふ樣《やう》な能《よ》くも/\繼《つ》ぎだらけな、それも自分《じぶん》の手《て》で膳《つくろ》つて清潔《きれい》に洗《あら》ひ曝《ざら》した仕事衣《しごとぎ》を裾長《すそなが》に着《き》て、手拭《てぬぐひ》を被《かぶ》つて暑《あつ》い庭《には》に小麥《こむぎ》を叩《たゝ》いて居《ゐ》るのを其處《そこ》此處《ここ》に見《み》
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