か》めなかつた。
「爺《ぢい》がにや佳味《うま》かあんめえ、おとつゝあはまつと丁寧《ていねい》に打《ぶ》てばえゝのに疎忽敷《そゝつかしい》から」おつぎはどうかすると椀《わん》から落《お》ち相《さう》になる蕎麥《そば》を啜《すゝ》りながら卯平《うへい》の手《て》もとを見《み》ていつた。
「どうせ俺《お》らあ、佳味《うめ》えつたつてさうだに減《へ》る程《ほど》でも食《く》ふべぢやなし、管《かま》やしねえが」卯平《うへい》は皮肉《ひにく》らしい口調《くてう》でいつた。勘次《かんじ》は只《たゞ》默《だま》つてむしや/\と不味相《まづさう》に噛《か》んだ。
恁《か》うして居《ゐ》る間《あひだ》に春《はる》の彼岸《ひがん》が來《き》て日南《ひなた》の垣根《かきね》には耳菜草《みゝなぐさ》や其《その》他《た》の雜草《ざつさう》が勢《いきほひ》よく出《で》だして桑畑《くはばたけ》の畦間《うねま》には冬《ふゆ》を越《こ》した薺《なづな》が線香《せんかう》の樣《やう》な薹《たう》を擡《もた》げて、其《そ》の先《さき》に粉米《こごめ》に似《に》た花《はな》を聚《あつ》めた。そつけない杉《すぎ》の木《き》までが何處《どこ》から枝《えだ》であるやら明瞭《はつきり》とは區別《くべつ》もつかぬ樣《やう》な然《しか》も燒《や》けたかと思《おも》ふ程《ほど》赤《あか》く成《な》つて居《ゐ》る葉先《はさき》にざらりと蕾《つぼみ》が附《つ》いてこつそりと咲《さ》いて畢《しま》つた。淋《さび》しい内《うち》にも春《はる》らしい空氣《くうき》が凡《すべ》ての物《もの》を撼《うご》かした。日《ひ》はまだ南《みなみ》を低《ひく》く渡《わた》りながら暖《あたゝ》かい光《ひかり》を投《な》げる。偶《たまたま》夜《よる》の雨《あめ》が歇《や》んでふうわりと軟《やはら》かな空《そら》が蒼《あを》く割《わ》れて稍《やゝ》昇《のぼ》つた其《その》暖《あたゝ》かな日《ひ》が斜《なゝめ》に射《さ》し掛《か》けると、枯《か》れた桑畑《くはばたけ》から、青《あを》い麥畑《むぎばたけ》から、凡《すべ》てから濕《しめ》つた布《ぬの》を火《ひ》に翳《かざ》したやうに凝《こ》つた水蒸氣《すゐじようき》が見渡《みわた》す限《かぎ》り白《しろ》くほか/\と立《た》ち騰《のぼ》つて低《ひく》く一|帶《たい》に地《ち》を掩《おほ》ふことがあつた。
卯平《うへい》は村落《むら》に歸《かへ》つてから往年《むかし》の伴侶《なかま》の間《あひだ》へ再《ふたゝ》び加《くはゝ》つて念佛衆《ねんぶつしゆう》の一|人《にん》になつた。家《いへ》に在《あ》つては孫《まご》の守《もり》をしたりしてどうしても獨《ひとり》離《はな》れた樣《やう》に成《な》つて居《ゐ》る各自《てんで》が暢氣《のんき》にさうして放埓《はうらつ》なことを云《い》ひ合《あ》うて騷《さわ》ぐので念佛寮《ねんぶつれう》は只《たゞ》愉快《ゆくわい》な場所《ばしよ》であつた。彼岸《ひがん》へ掛《か》けては殊《こと》に毎日《まいにち》愉快《ゆくわい》であつた。何處《どこ》の家《うち》からもそれ相應《さうおう》に佛《ほとけ》へというて供《そな》へる馳走《ちさう》に飽《あ》いて卯平《うへい》は始《はじ》めて滿足《まんぞく》した口《くち》を拭《ぬぐ》ふことが出來《でき》たのであつた。卯平《うへい》は段々《だん/\》時候《じこう》が暖《あたゝ》かく成《な》るに連《つ》れて身體《からだ》ものんびりとして案《あん》じて居《ゐ》た病氣《びやうき》の惱《なや》みも少《すこ》しづつ薄《うす》らいだ。彼《かれ》は手《て》もとの凡《すべ》てが不自由《ふじいう》だらけな生活《せいくわつ》に還《かへ》つて來《き》たとはいふものゝ衰《おとろ》へた身體《からだ》を自分《じぶん》から毎夜《まいよ》苛《いぢ》める樣《やう》に引《ひ》き立《た》てゝ居《ゐ》る奉公《ほうこう》の務《つと》めをして居《ゐ》た當時《たうじ》と比《くら》べて、寧《むし》ろ相《あひ》反《はん》した放縱《はうじう》な日頃《ひごろ》が自然《しぜん》に精神《せいしん》にも肉體《にくたい》にも急激《にはか》な休養《きうやう》を與《あた》へたので彼《かれ》は自分《じぶん》ながら一|時《じ》はげつそりと衰《おとろ》へた樣《やう》にも思《おも》はれて、懶《ものう》さに堪《た》へぬ樣《やう》に成《な》つたがそれでも其《そ》の休養《きうやう》の爲《ため》に幾《いく》らづゝでも持病《ぢびやう》の苦《くる》しみを減《げん》じたので、さういふ理由《わけ》を知《し》らない彼《かれ》は、此《こ》の分《ぶん》では二三|年《ねん》はまだ野田《のだ》に居《ゐ》た方《はう》が増《ま》しであつたと後悔《こうくわい》の念《ねん》が湧《わ》くこともあつた。
季節
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