》し煮《に》れば直《す》ぐくた/\に溶《と》けようとする。卯平《うへい》には却《かへつ》てそれが善《よ》いので、彼《かれ》はさうして呉《く》れるおつぎを何處《どこ》までも嬉《うれ》しく思《おも》つた。彼《かれ》は只《たゞ》一つでも善《い》いから始終《しじゆう》汁《しる》の中《なか》で必《かなら》ずくつ/\と煮《に》て欲《ほ》しかつた。然《しか》しそれは一同《みんな》で祝《いは》ふ時《とき》のみで、それさへ卯平《うへい》が只獨《ただひとり》ゆつくりと味《あぢは》ふには焙烙《はうろく》に乘《の》せる分量《ぶんりやう》が餘《あま》りに足《た》らなかつた。餅《もち》は四|角《かく》に庖丁《はうちやう》を入《い》れると直《す》ぐに勘次《かんじ》は自分《じぶん》の枕元《まくらもと》の桶《をけ》へ藏《しま》つて無斷《むだん》にはおつぎにさへ出《だ》すことを許容《ゆる》さないのであつた。勘次《かんじ》は假令《たとひ》什※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《どんな》ことがあつても面《まのあた》り卯平《うへい》に向《むか》つて一|言《ごん》でも呟《つぶや》いたことがないのみでなく、只管《ひたすら》或《ある》物《もの》を隱蔽《いんぺい》しようとするやうな恐怖《きようふ》の状態《じやうたい》を現《あらは》して居《ゐ》ながら、陰《かげ》では爪《つめ》の垢《あか》程《ほど》のことを目《め》に止《とめ》て獨《ひとり》でぶつ/\として居《ゐ》た。勘次《かんじ》は只《たゞ》一|度《ど》おつぎが自分《じぶん》の留守《るす》に卯平《うへい》の爲《ため》に其《そ》の餅《もち》の僅《わづか》を燒《や》いてやつたのをすら發見《はつけん》しておつぎを叱《しか》つた。
「そんだつておとつゝあは、よき欲《ほ》しいつちから出《だ》して俺《お》れと燒《や》いたんだあ、食《く》へたくなつちやしやうあんめえな」おつぎは甘《あま》えた舌《した》で言辭《ことば》は荒《あら》く勘次《かんじ》を窘《たしな》めた。勘次《かんじ》は其《そ》の以上《いじやう》を越《こ》して再《ふたゝ》びおつぎを叱《しか》ることは能《よ》くしなかつた。僅《わづか》な餅《もち》はさういふことで幾《いく》らも減《へ》らないのに時間《じかん》が經《た》つて、寒冷《かんれい》な空氣《くうき》の爲《ため》に陸稻《をかぼ》の特色《とくしよく》を現《あらは》して切口《きりくち》から忽《たちま》ちに罅割《ひゞわ》れになつて堅《かた》く乾燥《かんそう》した。だん/\燒《や》いて膨《ふく》れても外側《そとがは》は齒齦《はぐき》を痛《いた》める程《ほど》硬《こは》ばつて來《き》た。卯平《うへい》は其《そ》の一つさへ滿足《まんぞく》に嚥《の》み下《くだ》さうとするには寧《むし》ろ粗剛《こは》いぼろ/\な飯《めし》よりも容易《ようい》でなかつた。さうなつてからは勘次《かんじ》は竭《つ》きるまで能《よ》く燒《や》いた。卯平《うへい》はむつゝりとして額《ひたひ》に深《ふか》く刻《きざ》んだ大《おほ》きな皺《しわ》を六《むづ》ヶ|敷相《しさう》に動《うご》かしては堅《かた》い餅《もち》を舐《しやぶ》つた。卯平《うへい》の膳《ぜん》には冷《つめ》たく成《な》つた餅《もち》が屹度《きつと》残《のこ》された。腹《はら》を減《へ》らして學校《がくかう》から歸《かへ》つて來《く》る與吉《よきち》が何時《いつ》でもそれを噛《かじ》るのであつた。
勘次《かんじ》は又《また》蕎麥《そば》を打《う》つたことがあつた。彼《かれ》は黄蜀葵《ねり》の粉《こ》を繼《つな》ぎにして打《う》つた。彼《かれ》は又《また》おつぎへ注意《ちうい》をして能《よ》くは茹《う》でさせなかつた。手桶《てをけ》の冷《つめ》たい水《みづ》で曝《さら》した蕎麥《そば》は杉箸《すぎはし》のやうに太《ふと》いのに、黄蜀葵《ねり》の特色《とくしよく》の硬《こは》さと滑《なめ》らかさとで椀《わん》から跳《をど》り出《だ》し相《さう》に成《な》るのであつた。黄蜀葵《ねり》は能《よ》く畑《はたけ》の周圍《まはり》に作《つく》られて短《みじか》い莖《くき》には暑《あつ》い日《ひ》に大《おほ》きな黄色《きいろ》い花《はな》を開《ひら》く。其《そ》の根《ね》を乾燥《かんさう》して粉《こ》にして入《い》れゝば蕎麥《そば》の分量《かさ》が滅切《めつきり》殖《ふ》えるといふので、滿腹《まんぷく》する程度《ていど》に於《おい》ては只管《ひたすら》食料《しよくれう》の少量《せうりやう》なることのみを望《のぞ》んで居《ゐ》る勘次《かんじ》は毎年《まいねん》作《つく》つて屹度《きつと》それを用《もち》ひつゝあつた。
卯平《うへい》の齒齦《はぐき》には蕎麥《そば》が辷《すべ》つて噛《
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