んぢや爺《ぢい》がんだつけなあそら、どうして袋《ふくろ》さなんぞ入《せ》えてたんでえ爺《ぢい》は」おつぎは事《こと》もなげにいつた。
「蕎麥《そば》ツ掻《かき》でもしたらよかつぺつてお内儀《かみ》さん出《だ》したつけのよ」卯平《うへい》は舊《もと》の位置《ゐち》に坐《すわ》つていつた。
「さうかあ、そんぢや惡《わる》かつたつけな爺《ぢい》そんぢや俺《お》れ今《いま》入《せ》えてやつかんなよ」おつぎは勘次《かんじ》が寢《ね》る壁際《かべぎは》の桶《をけ》から先刻《さつき》のよりは遙《はる》かに多量《たりやう》を袋《ふくろ》へ入《い》れてやつた。さうしておつぎは勘次《かんじ》を尻目《しりめ》で見《み》た。卯平《うへい》は復《ま》た蕎麥掻《そばがき》を拵《こしら》へた。
「俺《お》れ注《つ》いでやつべか爺《ぢい》」火鉢《ひばち》の側《そば》に居《ゐ》た與吉《よきち》は藥罐《やくわん》へ手《て》を掛《か》けた。卯平《うへい》は與吉《よきち》のするが儘《まゝ》に任《まか》せた。卯平《うへい》は比較的《ひかくてき》悠長《いうちやう》に茶碗《ちやわん》を箸《はし》で掻《か》き交《ま》ぜた。
「出來《でき》たかあ」與吉《よきち》は卯平《うへい》の腕《うで》へ小《ちひ》さな手《て》を掛《か》けて覗《のぞ》く樣《やう》にしていつた。
「よき、何《なん》でえ汝《わ》りや、お飯《まんま》くつたばかしで」おつぎは與吉《よきち》を叱《しか》つた。
「汝《われ》も喰《く》へ」卯平《うへい》は蕎麥掻《そばがき》を分《わ》けてやつた。彼《かれ》はさうして更《さら》に後《あと》の一|杯《ぱい》を喫《きつ》して其《その》茶碗《ちやわん》へ湯《ゆ》を汲《く》んで飮《の》んだ。藥罐《やくわん》は輕《かる》くなつた。勘次《かんじ》は冷《つめ》たい手《て》を火《ひ》にも翳《かざ》さないで殊更《ことさら》に遠《とほ》く卯平《うへい》の側《そば》を離《はな》れて蹙《しか》めた酷《ひど》い顏《かほ》に恐怖《きようふ》の相《さう》を表《あら》はして唯《たゞ》凝然《ぢつ》と默《だま》つて居《ゐ》た。冷《つめ》たい三|人《にん》は夜《よる》の温度《をんど》のしん/\と降下《かうか》しつゝあるのを感《かん》じた。

         一八

 卯平《うへい》は久振《ひさしぶり》で故郷《こきやう》に歳《とし》を迎《むか》へた。彼等《かれら》の家《いへ》の門松《かどまつ》は只《たゞ》短《みじか》い松《まつ》の枝《えだ》と竹《たけ》の枝《えだ》とを小《ちひ》さな杙《くひ》に縛《しば》り付《つ》けて垣根《かきね》の入口《いりくち》に立《た》てたのみである。神棚《かみだな》へは藁《わら》で太《ふと》く綯《な》つた蝦《えび》の形《かたち》を横《よこ》に飾《かざ》つて其處《そこ》にも松《まつ》の短《みじか》い枝《えだ》をつけた。藁《わら》の蝦《えび》は卯平《うへい》が造《つく》つた。彼《かれ》はむつゝりとしながらも軟《やはら》かに藁《わら》を打《う》つて熱心《ねつしん》に手《て》を動《うご》かした。それで歳男《としをとこ》の役《やく》で飾《かざり》は勘次《かんじ》にさせた。煤《すゝ》け切《き》つた棚《たな》に新《あたら》しい藁《わら》の蝦《えび》が活々《いき/\》として見《み》えた。
 三ヶ|日《にち》は與吉《よきち》も穢《きたな》い衣物《きもの》を棄《す》てゝ、おつぎも近所《きんじよ》で髮《かみ》を結《ゆ》うて炊事《すゐじ》の時《とき》でも餘所行《よそゆき》の半纏《はんてん》に襷《たすき》を掛《か》けて働《はたら》いた。勘次《かんじ》は三ヶ|日《にち》さへ全然《まる/\》安佚《あんいつ》を貪《むさぼ》つては居《ゐ》なかつた。彼《かれ》は唐鍬《たうぐは》を擔《かつ》いで必《かなら》ず開墾地《かいこんち》へ出《で》たのである。彼《かれ》は次第《しだい》に懷《ふところ》の工合《ぐあひ》が善《よ》く成《な》り掛《か》けたので、今《いま》では其《そ》の勢《いきほ》ひづいた唐鍬《たうぐは》の一|打《うち》は一|打《うち》と自分《じぶん》の蓄《たくは》へを積《つ》んで行《ゆ》く理由《わけ》なので、彼《かれ》は餘念《よねん》もなく極《きは》めて愉快《ゆくわい》に仕事《しごと》に從《したが》つて居《ゐ》るやうに成《な》つたのである。歳《とし》の首《はじめ》といふので有繋《さすが》に彼《かれ》の家《いへ》でも相當《さうたう》に餅《もち》や饂飩《うどん》や蕎麥《そば》が其《そ》の日《ひ》/\の例《れい》に依《よつ》て供《そな》へられた。軟《やはら》かな餅《もち》が卯平《うへい》の齒齦《はぐき》には一|番《ばん》適當《てきたう》して居《ゐ》た。殊《こと》に陸稻《をかぼ》の餅《もち》は足《あし》が弱《よわ》いので、少《すこ
前へ 次へ
全239ページ中145ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
長塚 節 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング