彼《かれ》は自分《じぶん》が居《ゐ》る内《うち》は容易《ようい》に罎《びん》の分量《ぶんりやう》が減《へ》らないのに、一|日《にち》餘處《よそ》へ行《い》つて居《ゐ》た日《ひ》は滅切《めつきり》と少《すくな》くなつて居《ゐ》るのを或《ある》時《とき》ふと發見《はつけん》して少《すこ》し不快《ふくわい》に且《かつ》變《へん》に思《おも》ひつゝあつた。繩《なは》で括《くゝ》つた別《べつ》の罎《びん》の底《そこ》の方《はう》に醤油《しやうゆ》が少《すこ》しあつた。卯平《うへい》はそれでも其《そ》れを見《み》つけて漸《やうや》く蕎麥掻《そばがき》の味《あぢ》を補《おぎな》つた。罎《びん》の底《そこ》になつた醤油《しやうゆ》は一|番《ばん》の醤油粕《しやうゆかす》で造《つく》り込《こ》んだ安物《やすもの》で、鹽《しほ》の辛《から》い味《あぢ》が舌《した》を刺戟《しげき》するばかりでなく、苦味《にがみ》さへ加《くは》はつて居《ゐ》る。彼等《かれら》は平生《へいぜい》さういふ醤油《しやうゆ》でも滅多《めつた》に用《もち》ゐないので多量《たりやう》に求《もと》める時《とき》でも十|錢《せん》を越《こ》えないのである。以前《いぜん》の卯平《うへい》であればさういふ味《あぢ》が普通《ふつう》で且《かつ》佳味《うま》く感《かん》ずる筈《はず》なのであるが、數年來《すうねんらい》佳味《うま》い醤油《しやうゆ》を惜氣《をしげ》もなく使用《しよう》して來《き》た口《くち》には恐《おそ》ろしい不味《まづ》さを感《かん》ぜずには居《ゐ》られなかつた。それでも蕎麥掻《そばがき》は身體《からだ》が暖《あたゝ》まる樣《やう》で快《こゝろよ》かつた。彼《かれ》はたべた後《あと》の茶碗《ちやわん》へ沸《たぎ》つた湯《ゆ》を注《つ》いで箸《はし》で茶碗《ちやわん》の内側《うちがは》を落《おと》して其《そ》の儘《まゝ》棚《たな》へ置《お》いた。さうしては彼《かれ》は毎日《まいにち》の仕事《しごと》のやうに外《そと》へ出《で》た。勘次《かんじ》は一|日《にち》の仕事《しごと》を畢《を》へて歸《かへ》つて來《き》ては目敏《めざと》く卯平《うへい》の茶碗《ちやわん》を見《み》て不審《ふしん》に思《おも》つて桶《をけ》の蓋《ふた》をとつて見《み》た。遂《つひ》に彼《かれ》は卯平《うへい》の袋《ふくろ》を發見《はつけん》した。
「おつう、汝《われ》此《こ》の蕎麥《そば》つ粉《こな》出《だ》して遣《や》つたのか」勘次《かんじ》はおつぎに聞《き》いた。
「俺《お》ら出《だ》すめえな」おつぎは何《なに》も解《かい》せぬ容子《ようす》でいつた。
「蕎麥《そば》ツ掻《かき》なんぞにしたつて詰《つま》りやしねえ、碌《ろく》に有《あ》りもしねえ粉《こな》だ」彼《かれ》は呟《つぶや》いた。それから彼《かれ》は又《また》
「此《こ》れも、はあ、有《あ》りやしねえ」醤油《しやうゆ》の罎《びん》を透《すか》して其《それ》から振《ふ》つて見《み》ていつた。
「おとつゝあ、それにやねえのがんだぞ」おつぎは打《う》ち消《け》した。
「えゝから、此《こ》れつ切《きり》ぢやきかねえのがんだから」勘次《かんじ》はおつぎを呶鳴《どな》りつけた。彼《かれ》は更《さら》に袋《ふくろ》の蕎麥粉《そばこ》を桶《をけ》へ明《あ》けて畢《しま》つて猶《なほ》ぶつ/\して居《ゐ》た。手《て》ランプが薄闇《うすぐら》く點《とも》された時《とき》卯平《うへい》はのつそり歸《かへ》つて來《き》た。彼《かれ》は膳《ぜん》に向《むか》はうともしないが火鉢《ひばち》の前《まへ》にどさりと坐《すわ》つた儘《まゝ》、例《れい》の蟠《わだかま》りの有相《ありさう》な容子《ようす》をしては右手《うしゆ》の人《ひと》さし指《ゆび》を掛《か》けてぎつと握《にぎ》つた煙管《きせる》を横《よこ》に噛《か》んで居《ゐ》た。
「おつう、汝《われ》まつと此處《ここ》さ火《ひい》とつてくんねえか」卯平《うへい》はそれだけいつて依然《いぜん》として火《ひ》もない煙管《きせる》を噛《か》んだ。おつぎは麁朶《そだ》を折《を》つて藥罐《やくわん》の下《した》を燃《も》やしてやつた。藥罐《やくわん》が鳴《な》り出《だ》した時《とき》卯平《うへい》は懶《ものう》さ相《さう》な身體《からだ》をゆつさりと起《おこ》して其處《そこ》らを頻《しき》りに探《さが》しはじめた。
「何《なん》でえ爺《ぢい》」おつぎは直《すぐ》に聞《き》いた。
「うむ、袋《ふくろ》よ」卯平《うへい》は極《きは》めて簡單《かんたん》にいつた。
「此《こ》れだんべ爺《ぢい》、蕎麥《そば》つ粉《こな》へえつてたのな、俺《お》らどうしたんだか知《し》んねえから桶《をけ》ん中《なか》さ明《あ》けて置《お》いたつきや、そ
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