やに》の浸《し》みた煙管《きせる》をぢう/\と鳴《な》らしながら難《むづ》かしい顏《かほ》が暫《しばら》く解《と》けなかつた。
 卯平《うへい》は清潔好《きれいずき》なのでむつゝりとしながら獨《ひとり》で居《ゐ》る時《とき》には草箒《くさばうき》で土間《どま》の軒《のき》の下《した》を掃《は》いては鷄《とり》が足《あし》の爪《つめ》で掻《か》き亂《みだ》した庭葢《にはぶた》の周圍《あたり》をも掃《は》きつけて置《お》いた。彼《かれ》は座敷《ざしき》の内《うち》も掃除《さうぢ》をして毎朝《まいあさ》蒲團《ふとん》を整然《ちやん》と始末《しまつ》する樣《やう》に寡言《むくち》な口《くち》からおつぎに吩咐《いひつ》けた。清潔《きれい》に成《な》ることは勘次《かんじ》も惡《わる》いことには思《おも》はなかつたが、幾《いく》らもない家財道具《かざいだうぐ》へ少《すこ》しでも手《て》を掛《か》けられるのが懷《ふところ》でも探《さぐ》られる樣《やう》に勘次《かんじ》には何《なん》となく不安《ふあん》の念《ねん》が起《おこ》されるのであつた。勘次《かんじ》の目《め》には卯平《うへい》が能《よ》く村落《むら》の店《みせ》に行《ゆ》くのは贅澤《ぜいたく》な老人《としより》である樣《やう》に僻《ひが》んで見《み》える廉《かど》もあつた。只《たゞ》さうして居《ゐ》る間《うち》に舊暦《きうれき》の年末《ねんまつ》が近《ちか》づいて何處《どこ》の家《うち》でも小麥《こむぎ》や蕎麥《そば》の粉《こ》を挽《ひ》いた。
 卯平《うへい》は時々《とき/″\》は東隣《ひがしとなり》の門《もん》をも潜《くゞ》つた。主人夫婦《しゆじんふうふ》は丈夫《ぢやうぶ》だといつても窶《やつ》れた卯平《うへい》を見《み》ると憐《あは》れになつて
「身體《からだ》はどうしたえ」と能《よ》く聞《き》いた。
「えゝ、今分《いまぶん》ぢや、さうだに惡《わ》りいつちこともねえが」と卯平《うへい》はいつも煮《に》え切《き》らぬいひ方《かた》をして、其《そ》れを聞《き》かれることを有繋《さすが》に心《こゝろ》の内《うち》に悦《よろこ》んで窪《くぼ》んだ目《め》を蹙《しか》める樣《やう》にした。
「それでも勘次《かんじ》は能《よ》くするかえ」内儀《かみ》さんが聞《き》けば
「ありや、はあ、以前《めえかた》つからあゝゆんだから」卯平《うへい》はぶすりといふのである。
「おつぎはどうだえ」
「ありやあそれ、勘次《かんじ》たあ違《ちが》あから、何《なん》ちつても有繋《まさか》赤《あか》ん坊《ばう》ん時《とき》つからのがだから」
「節挽《せちびき》はたんとした容子《ようす》かえそれでも」
「えゝ、おつうこと連《つ》れてつて、南《みなみ》で挽《ひ》くなあ挽《ひ》いたやうだが、桶《をけ》さ入《せ》えた儘《まゝ》で蓋《ふた》したつ切《きり》藏《しま》つて置《お》くから、わしやどのつ位《くれえ》あるもんだか見《み》もしねえが」
「勘次《かんじ》は軟《やはら》かい物《もの》でも少《すこ》しは拵《こしら》えてくれるかね」
「えゝ、毎日《まいんち》同士《どうし》にたべちや居《ゐ》んだがなあに齒《は》せえ丈夫《ぢやうぶ》なら粗剛《こうえ》つたつて管《かま》やしねえが」
「それぢや蕎麥粉《そばこ》でも少《すこ》し遣《や》らうかね蕎麥掻《そばがき》でも拵《こしら》へてたべた方《はう》が善《い》いよ、蕎麥《そば》に打《う》つちや冷《ひ》えるが蕎麥掻《そばがき》は暖《あつた》まるといふからね」内儀《かみ》さんは木綿《もめん》で作《つく》つた袋《ふくろ》へ蕎麥粉《そばこ》を二|升《しやう》ばかり入《い》れて
「勘次《かんじ》も泣《な》きだから、それでも今《いま》に生計《くらし》もだん/\善《よ》くなんだらうから、さうすりや惡《わる》くばかりもすまいよ、どうも昔《むかし》から合性《あひしやう》が惡《わる》いんだからね、まあ年齡《とし》とつたら仕方《しかた》がないから我慢《がまん》して居《ゐ》るんだよ、餘《あんま》り酷《ひど》けりや他人《ひと》が共々《とも/″\》見《み》ちや居《ゐ》ないから、それだが勘次《かんじ》も有繋《まさか》それ程《ほど》でもないんだらうしね」内儀《かみ》さんは慰《なぐさ》めていつた。卯平《うへい》は蕎麥粉《そばこ》を大事《だいじ》にして、勘次《かんじ》が開墾《かいこん》に出《で》た後《あと》で藥罐《やくわん》の湯《ゆ》を沸《わか》しては蕎麥掻《そばがき》を拵《こしら》へてたべた。其《そ》の頃《ころ》は彼《かれ》の提《さ》げて來《き》た二|罎《びん》の醤油《しやうゆ》はもう無《な》くなつて居《ゐ》た。彼《かれ》は其《そ》の減《へ》つて行《ゆ》くのを更《さら》に惜《おし》いとは思《おも》はなかつたが、然《しか》し
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