てついと座敷《ざしき》へ立《た》つた。卯平《うへい》はいきなり煙管《きせる》を叩《たゝ》きつけた。鷄《とり》は慌《あわ》てゝ座敷《ざしき》の筵《むしろ》へ泥《どろ》を落《おと》して閾《しきゐ》の外《そと》に脚《あし》を突《つ》き出《だ》した儘《まゝ》暫《しばら》く轉《ころ》がつて居《ゐ》たが、遂《つひ》には蹌跟《よろ》け/\鳴《な》き騷《さわ》ぎつゝ遠《とほ》く遁《にげ》た。白《しろ》い毛《け》が拔《ぬ》けて其處《そこ》ら中《ぢう》に夥《おびたゞ》しく散亂《さんらん》した。煙管《きせる》は鷄《とり》から更《さら》に強《つよ》く戸口《とぐち》の閾《しきゐ》を打《う》つて庭《には》の土《つち》に止《とま》つた。
「爺《ぢい》とつてやんべか」暫《しばら》くして與吉《よきち》は卯平《うへい》の顏《かほ》を覗《のぞ》くやうにしていつた。
「よこせ」卯平《うへい》は暫《しばら》く經《た》つてからむつゝりとして舌《した》を鳴《な》らしながらいつた。
「さあ」與吉《よきち》の出《だ》した煙管《きせる》を卯平《うへい》は拭《ふ》きもせずに口《くち》へ銜《くは》へた。暫《しばら》くしてから卯平《うへい》は苦《にが》い顏《かほ》をしてぢより/\とこそつぱい口《くち》の泥《どろ》をぴよつと吐《は》き出《だ》してそれから口《くち》を衣物《きもの》でこすつた。彼《かれ》は又《また》煙草《たばこ》を吸《す》ひつけようとしては羅宇《らう》に罅《ひゞ》が入《い》つたのを知《し》つた。彼《かれ》はくた/\に成《な》つた紙《かみ》を袂《たもと》から探《さぐ》り出《だ》してそれを睡《つば》で濡《ぬ》らして極《きは》めて面倒《めんだう》にぐる/\と其《そ》の罅《ひゞ》を捲《ま》いた。卯平《うへい》はそれからふいと出《で》て夜《よる》まで歸《かへ》らなかつた。勘次《かんじ》は鷄《とり》の拔毛《ぬけげ》を見《み》て鼬《いたち》が出《で》たのではないかといふ懸念《けねん》を懷《いだ》いて其處《そこ》ら中《ぢう》を隈《くま》なく見《み》た。鷄《とり》は他《ほか》の鷄《とり》が悉《こと/″\》く塒《とや》に就《つ》いても歸《かへ》らなかつた。鼬《いたち》は一|羽《は》殺《ころ》せば必《かなら》ず復《また》他《ほか》を襲《おそ》ふので勘次《かんじ》は少《すくな》からず其《そ》の心《こゝろ》を騷《さわ》がしたのであつた。
「爺《ぢい》打《ぶ》つとばしたんだわ」與吉《よきち》は勘次《かんじ》へいつた。
「どうしてだ」勘次《かんじ》は驚《おどろ》いた眼《め》を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》つて慌《あわ》てゝ聞《き》いた。
「座敷《ざしき》へ上《あが》つたら煙管《きせる》打《ぶ》つゝけたんだ。そんで俺《お》れ煙管《きせる》とつてやつたんだ」勘次《かんじ》は餌料《ゑさ》を撒《ま》いて鷄《とり》を聚《あつ》めて見《み》た。一|旦《たん》塒《とや》に就《つ》いた鷄《とり》が餌料《ゑさ》を見《み》てはみんな籃《かご》からばさ/\と飛《と》びおりてこツこツと鳴《な》きながら爪《つめ》で掻《か》つ拂《ぱ》き/\爭《あらそ》うて啄《つゝ》いた。勘次《かんじ》は遂《つひ》に鷄《とり》の數《かず》の不足《ふそく》して居《ゐ》ることを確《たしか》めざるを得《え》なかつた。卯平《うへい》は例《れい》の如《ごと》く豆腐《とうふ》でコツプ酒《ざけ》を傾《かたむ》けて來《き》て晩餐《ばんさん》を欲《ほつ》しなかつた。彼《かれ》の皺《しわ》深《ふか》く刻《きざ》んだ頬《ほゝ》にほんのりと赤味《あかみ》を帶《お》びて居《ゐ》た。彼《かれ》は火鉢《ひばち》の前《まへ》に胡坐《あぐら》を掻《か》いた儘《まゝ》一|言《ごん》もいはない。おつぎが甘《あま》えた舌《した》でいつても返辭《へんじ》もしなかつた。勘次《かんじ》も卯平《うへい》の側《そば》を退去《すさ》つて只《たゞ》恐《おそ》ろしく僻《ひが》んだ容子《ようす》をして居《ゐ》た。おつぎも遂《つひ》にいはなかつた。與吉《よきち》は只《たゞ》ぐつすりと眠《ねむ》つて居《ゐ》た。
 驚怖《きやうふ》の餘《あま》り物陰《ものかげ》に凝然《ぢつ》と潜伏《せんぷく》して居《ゐ》た鷄《とり》は次《つぎ》の朝《あさ》漸《やうや》く他《た》の鷄《とり》の群《むれ》に交《まじ》つて歩《ある》いたけれど幾《いく》らかまだ跛足《びつこ》曳《ひ》いて居《ゐ》た。勘次《かんじ》は態《わざ》と卯平《うへい》へ見《み》せつける樣《やう》に其《そ》の夜《よ》塒《とや》に就《つ》いた時《とき》其《そ》の鷄《とり》を籠《かご》に伏《ふ》せて、戸口《とぐち》の庭葢《にはぶた》の上《うへ》に三|日《か》も四|日《か》も置《お》いたのであつた。卯平《うへい》は捲《ま》きつけた紙《かみ》へ煙脂《
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