あた》はぬ程《ほど》忽《たちま》ちに空腹《くうふく》を感《かん》じて畢《しま》ふからである。隨《したが》つて孰《いづ》れの家庭《かてい》に在《あ》つても老者《らうしや》と壯者《さうしや》との間《あひだ》には此《こ》の點《てん》の調和《てうわ》が難事《なんじ》である。然《しか》し卯平《うへい》は老衰《らうすゐ》の身《み》を漸《やうや》くのことで投《な》げ掛《か》けた心《こゝろ》の底《そこ》に蟠《わだかま》つた遠慮《ゑんりよ》と性來《せいらい》の寡言《むくち》とで、自分《じぶん》から要求《えうきう》することは寸毫《すんがう》もなかつた。彼《かれ》は只《たゞ》空腹《くうふく》を凌《しの》ぐ爲《ため》に日毎《ひごと》に不味《まづ》い口《くち》を強《し》ひて動《うご》かしつゝあるのである。疎惡《そあく》な食料《しよくれう》は少時《せうじ》からおつぎの目《め》にも口《くち》にも熟《じゆく》して居《ゐ》るので、其處《そこ》には何《なん》の心《こゝろ》も附《つ》かなかつた。不味相《まづさう》な容子《ようす》をして箸《はし》を執《と》るのは卯平《うへい》が凡《すべ》ての場合《ばあひ》を通《つう》じての状態《じやうたい》なので、おつぎの目《め》には格別《かくべつ》の注意《ちうい》を起《おこ》さしむべき動機《どうき》が一《ひと》つも捉《とら》へられなかつた。恁《か》うしておつぎは卯平《うへい》に向《むか》つて彼《かれ》が幾分《いくぶん》づゝでも餘計《よけい》に滿足《まんぞく》し得《う》る程度《ていど》にまで心《こゝろ》を竭《つく》すことが、善意《ぜんい》を以《もつ》てしても寧《むし》ろ冷淡《れいたん》であるが如《ごと》く見《み》えねばならなかつた。然《しか》し卯平《うへい》は決《けつ》して衷心《ちうしん》からおつぎを憎《にく》まなかつた。卯平《うへい》は時々《とき/″\》外《そと》へ出《で》ては豆腐《とうふ》を喫《きつ》して自分《じぶん》の膳《ぜん》の箸《はし》を執《と》らぬことはあるのであつたが、それでも勘次《かんじ》は三|人《にん》のみが家族《かぞく》であつた時《とき》よりも※[#「穀」の「禾」に代えて「釆」、254−8]物《こくもつ》の減少《げんせう》する量《りやう》が殖《ふ》えて來《き》たことを忽《たちま》ちに目《め》に止《と》めた。何《ど》れ程《ほど》大《おほ》きな身體《からだ》でも卯平《うへい》は八十に近《ちか》い老衰者《らうすゐしや》である。一日《いちにち》の食料《しよくれう》がどれ程《ほど》要《い》るかそれは知《し》れたものである。それでも勘次《かんじ》は從來《これまで》よりも餘計《よけい》に費《つひ》やさねばならぬ※[#「穀」の「禾」に代えて「釆」、254−10]物《こくもつ》に就《つ》いて彼《かれ》の淺猿《さも》しい心《こゝろ》が到底《たうてい》騷《さわ》がされねばならなかつた。勘次《かんじ》は卯平《うへい》の居《ゐ》ぬ時《とき》にはそれとはなく獨《ひと》りぶつ/\と呟《つぶや》くことがあつた。與吉《よきち》はそれを聞《き》いて居《ゐ》た。彼《かれ》は、火鉢《ひばち》の前《まへ》に凝然《ぢつ》として居《ゐ》ては座敷《ざしき》へ上《あが》る鷄《にはとり》をしい/\と逐《お》ひつつむつゝりとして居《ゐ》る卯平《うへい》に小《ちひ》さな銅貨《どうくわ》を貰《もら》つては、それを口《くち》へ入《い》れたり座敷《ざしき》へ落《おと》したりしながら卯平《うへい》へ種々《いろ/\》なことを饒舌《しやべ》つて聞《き》かせた。
「爺《ぢい》」と喚《よ》び掛《か》けて彼《かれ》は或《あ》る日《ひ》斯《か》ういつた。
「爺《ぢい》來《き》てから米《こめ》しつかり減《へ》つてしやうねえつて云《ゆ》つたぞう」
「うむ」卯平《うへい》は口《くち》に銜《くは》へた煙管《きせる》を徐《おもむ》ろに手《て》に取《と》つて
「おとつゝあでもあんべ」卯平《うへい》はげつそりといつた。
「おとつゝあ、何遍《なんべん》も云《ゆ》つたんだわ」卯平《うへい》は又《また》煙管《きせる》を噛《か》んで手《て》が少《すこ》し顫《ふる》へた。
「云《ゆ》はざらに」と卯平《うへい》は凝然《ぢつ》と目《め》を蹙《しか》めつゝ少《すこ》し壤《こは》れた壁《かべ》の一|方《ぱう》を睨《ね》めつゝいつた。
霜解《しもどけ》の庭《には》を掻《か》き立《た》てゝ居《ゐ》た鷄《とり》がくるりと指《ゆび》を捲《ま》いては足《あし》を擧《あ》げて驚《おどろ》いた樣《やう》に周圍《あたり》を見《み》て、又《また》足《あし》を踏《ふ》みつけ/\のつそり歩《ある》いて戸口《とぐち》の閾《しきゐ》へ暫《しばら》く乘《の》つてずつと延《の》ばした首《くび》を少《すこ》し傾《かたむ》けて卯平《うへい》を見《み》
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