胡坐《あぐら》を掻《か》いて居《ゐ》ることもあつた
與吉《よきち》は學校《がくかう》から歸《かへ》つてひつそりとした家《いへ》に只《たゞ》卯平《うへい》がむつゝりとして居《ゐ》るのを見《み》ると威勢《ゐせい》よく駈《か》けて來《き》たのも悄《しよ》げて風呂敷包《ふろしきづゝみ》の書籍《しよせき》をばたりと座敷《ざしき》へ投《な》げて庭《には》へ出《で》て畢《しま》ふ。卯平《うへい》は
「よき、待《ま》つてろ、そら」と財布《さいふ》から面倒《めんだう》に五|厘《りん》の銅貨《どうくわ》を拾《ひろ》ひ出《だ》して投《なげ》てやる。與吉《よきち》は戸《と》の陰《かげ》に居《ゐ》ては忸怩《もぢ/\》して容易《ようい》に取《と》らないで然《しか》も欲《ほ》し相《さう》に筵《むしろ》の上《うへ》の銅貨《どうくわ》を見《み》る。卯平《うへい》はさうすると又《また》のつそりと懶《ものう》げに身體《からだ》を戸口《とぐち》まで動《うご》かして與吉《よきち》の手《て》に渡《わた》してやる。與吉《よきち》は一|散《さん》に駈《か》けて菓子《くわし》を求《もと》めに行《ゆ》く。卯平《うへい》の窪《くぼ》んだ茶色《ちやいろ》の眼《め》が後《あと》で獨《ひとり》蹙《しが》んだやうに成《な》るのである。
卯平《うへい》が村落《むら》の店《みせ》に懶《ものう》い身體《からだ》を据《す》ゑて煙草《たばこ》を吹《ふ》かして居《ゐ》る處《ところ》へ與吉《よきち》は行合《いきあは》せることがあつても遠《とほ》くの方《はう》から卯平《うへい》を見《み》て居《ゐ》て、近《ちか》づきもしないが去《さ》らうともしないで居《ゐ》る。卯平《うへい》は屹度《きつと》ガラス戸《ど》を立《たて》て店臺《みせだい》から自分《じぶん》で菓子《くわし》をとつてやる。それでも與吉《よきち》は菓子《くわし》を噛《か》ぢりながら側《そば》へは寄《よ》らうともしなかつた。
「與吉《よきち》らたえしたもんだな、始終《とほして》もらつてな」店《みせ》の女房《にようばう》がいふのを聞《き》くのは與吉《よきち》よりも寧《むし》ろ卯平《うへい》が心《こゝろ》に滿足《まんぞく》を感《かん》ずるのであつた。然《しか》し與吉《よきち》は恁《か》うして段々《だん/\》卯平《うへい》に近《ちか》づいて學校《がくかう》から歸《かへ》つたといつては
「爺《ぢい》」といつて戸口《とぐち》に立《た》つやうに成《な》つた。遂《つひ》には彼《かれ》は
「爺《ぢい》くんねえか」と上《あが》り框《がまち》に胸《むね》を持《も》たせて、ばた/\と下駄《げた》で土間《どま》を叩《たゝ》きながら卯平《うへい》に錢《ぜに》を請《こ》ふやうに成《な》つた。それでも彼《かれ》は錢《ぜに》とは明白地《あからさま》にはいはない。
「汝《わ》りや、何《なに》くろつちんでえ」むつゝりした卯平《うへい》が態《わざ》とかう聞《き》くと
「呉《く》んねえか、買《か》あんだから」與吉《よきち》は又《また》ぼんやりと然《しか》も熱心《ねつしん》に要求《えうきう》する。其《その》態度《たいど》を卯平《うへい》は只《たゞ》快《こゝろ》よく思《おも》ふのであつた。
與吉《よきち》が懷《なづ》くまでには日數《ひかず》が經《た》つた。卯平《うへい》は勘次《かんじ》との間《あひだ》は豫期《よき》して居《ゐ》た如《ごと》く冷《ひやゝ》がではあつたが、丁度《ちやうど》落付《おちつ》かない藁屑《わらくづ》を足《あし》で掻《か》つ拂《ぱ》いては鷄《にはとり》が到頭《たうとう》其《そ》の巣《す》を作《つく》るやうに、彼《かれ》は互《たがひ》にこそつぱい勘次《かんじ》の側《そば》に幾分《いくぶん》づゝでも身《み》も心《こゝろ》も落付《おちつけ》ねばならなく餘儀《よぎ》なくされた。さうして彼《かれ》は自分《じぶん》の定《さだ》まつた家《いへ》其《そ》の物《もの》は假令《たとひ》どうであらうとも、心《こゝろ》の一|部《ぶ》には遠慮《ゑんりよ》から離《はな》れた餘裕《よゆう》が生《しやう》じて來《き》て彼《かれ》は僅《わづか》に五六|日《にち》と思《おも》ふ内《うち》に卅|日《にち》以上《いじやう》を經過《けいくわ》して畢《しま》つたのであつた。其《そ》の間《あひだ》彼《かれ》は只《たゞ》の一|度《ど》でも軟《やはら》かな飯《めし》を快《こゝろ》よく嚥《の》み下《くだ》したことがない、勞働者《らうどうしや》の多《おほ》く貪《むさぼ》らねばならぬ強健《きやうけん》なる胃《ゐ》は到底《たうてい》軟《やはらか》な物《もの》に堪《た》へ得《う》る處《ところ》ではない。齒《は》に硬《こは》く感《かん》ずる物《もの》でなければ食事《しよくじ》から食事《しよくじ》までの間《あひだ》を保《たも》ち能《
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