すゝ》が垂《た》れてさうして雨戸《あまど》を開《あ》けてない薄闇《うすくら》い家《いへ》の内《うち》に凝然《ぢつ》としては妙《めう》に心《こゝろ》が滅入《めい》つた。毎日《まいにち》朝《あさ》から尻切襦袢《しりきりじゆばん》一つで熱湯《ねつたう》の桶《をけ》を右《みぎ》の手《て》で肩《かた》に支《さゝ》へては駈《か》け歩《ある》く威勢《ゐせい》の善《い》い壯丁《わかもの》の間《あひだ》に交《まじ》つて唄《うた》の聲《こゑ》を聞《きい》て居《ゐ》たのに、一つには草臥《くたびれ》も出《で》た爲《ため》でもあるが僅《わづか》一|日《にち》の隔《へだて》で彼《かれ》は俄《にはか》に年齡《とし》をとつた程《ほど》げつそりと窶《やつ》れたやうな心持《こゝろもち》に成《な》つた。皆《みな》の夜具《やぐ》は只《たゞ》壁際《かべぎは》に端《はし》を捲《ま》くつた儘《まゝ》で突《つ》きつけてある。卯平《うへい》は其處《そこ》を凝然《ぢつ》と見《み》た。箱枕《はこまくら》の括《くゝ》りは紙《かみ》で包《つゝ》んでないばかりでなく、切地《きれぢ》の縞目《しまめ》も分《わか》らぬ程《ほど》汚《きた》なく脂肪《あぶら》に染《そま》つて居《ゐ》る。土間《どま》の壁際《かべぎは》に吊《つ》つた竹籃《たけかご》の塒《とや》には鷄《にはとり》の糞《ふん》が一|杯《ぱい》に溜《たま》つたと見《み》えて異臭《いしう》が鼻《はな》を衝《つ》いた。卯平《うへい》は天性《ね》が清潔好《きれいずき》であつたが、百姓《ひやくしやう》の生活《せいくわつ》をして、それに非常《ひじやう》な貧乏《びんばふ》から什※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《どんな》にしても穢《きた》ない物《もの》の間《あひだ》に起臥《きぐわ》せねばならぬので彼《かれ》も野田《のだ》へ行《ゆ》くまではそれをも別段《べつだん》苦《く》にはしなかつたのであるが、假令《たとひ》幾年《いくねん》でも清潔《せいけつ》な住《すま》ひをした彼《かれ》は天性《てんせい》を助長《じよちやう》して一|種《しゆ》の習慣《しふくわん》を養《やしな》つた。彼《かれ》が家《いへ》に歸《かへ》つたのはお品《しな》が死《し》んだ時《とき》でも、それから三|年目《ねんめ》の盆《ぼん》の時《とき》でも家《いへ》は空洞《からり》と清潔《きれい》に成《な》つて居《ゐ》てそれほど汚穢《むさ》い感《かん》じは與《あた》へられなかつた。彼《かれ》は今《いま》熾《さかん》な暑《あつ》い日《ひ》を仰《あふ》いだ目《め》を放《はな》つて俄《にはか》に物陰《ものかげ》を探《さが》さうとするものゝやうに酷《ひど》く勝手《かつて》が違《ちが》つたのである。
彼《かれ》は暫《しばら》く好《すき》な煙草《たばこ》に屈託《くつたく》して居《ゐ》たが漸《やうや》く日《ひ》が暖《あたゝか》く成《な》り掛《か》けたので、稀《まれ》に生存《せいぞん》して居《ゐ》る往年《わうねん》の朋輩《ほうばい》や近所《きんじよ》への義理《ぎり》かた/″\顏《かほ》を出《だ》す積《つもり》で外《そと》へ出《で》た。勘次《かんじ》とおつぎとが晝餐《ひる》に歸《かへ》つて來《き》た時《とき》に卯平《うへい》は居《ゐ》なかつた。彼《かれ》は夜《よる》に成《な》つてのつそりと戸口《とぐち》に立《た》つた。勘次《かんじ》が庭《には》へ出《で》ようとして大戸《おほど》をがらりと開《あ》けた時《とき》卯平《うへい》と衝突《つきあた》り相《さう》に成《な》つた。勘次《かんじ》は足《あし》もとにずる/\と横《よこた》はつた蛇《へび》を見《み》つけた刹那《せつな》の如《ごと》く悚然《ぞつ》として退去《すさ》つた。
卯平《うへい》は缺《か》けた齒齦《はぐき》で煙管《きせる》を横《よこ》に噛《か》んでは脣《くちびる》をぎつと締《し》めると口《くち》が芒《すゝき》で裂《さ》いた樣《やう》に見《み》えた。老衰《らうすゐ》してから餘計《よけい》にのつそりした卯平《うへい》の身體《からだ》は、それでも以前《いぜん》のがつしりした骨格《ほねぐみ》が聳《そび》えて側《そば》に居《ゐ》る勘次《かんじ》を異樣《いやう》に壓《あつ》した。卯平《うへい》は五六|日《にち》の間《あひだ》毎日《まいにち》唯《たゞ》ぶら/\と出《で》ては黄昏近《たそがれちか》くかそれでなければ夜《よる》に成《な》つて歸《かへ》つた。勘次《かんじ》は毎日《まいにち》唐鍬《たうぐは》持《も》つて林《はやし》へ出《で》た。おつぎは半纏《はんてん》を引掛《ひつか》けて針《はり》の師匠《しゝやう》へ通《かよ》つた。おつぎはもう幾年《いくねん》といふ永《なが》い間《あひだ》のことではあるが、それでも極《きま》つた月日《つきひ》
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