た。
「菜《な》つ葉《ぱ》の漬《つけ》たなどうしたんべ」おつぎは顧《かへり》みて聞《き》いた。
「俺《お》ら要《い》らねえや、齒《は》悪《わる》くなつちやつて噛《か》まんねえから」
「そんぢや細《こま》かく刻《きざ》んだらどうしたんべ」おつぎはとん/\と庖丁《はうちやう》を使《つか》つた。
「お汁《つけ》まあ、ちつとも身《み》なんざねえや、よき汝《われ》みんな芋《いも》すくつちやつたな」
おつぎは鍋葢《なべぶた》をとつていつた。
「お汁《つけ》も何《なに》も要《い》らねえから一|杯《ぺえ》掻《か》つ込《こ》んべ」卯平《うへい》は遲緩《もどか》し相《さう》にいつた。
「そんぢや此《この》醤油《しやうゆ》掛《か》けてんべな」おつぎは卯平《うへい》の前《まへ》に膳《ぜん》を据《す》ゑて罎《びん》の醤油《しやうゆ》を菜漬《なづけ》へ掛《か》けた。
「それ、底《そこ》の方《はう》へ廻《まは》つて零《こぼ》れらな」勘次《かんじ》は先刻《さつき》から、怒《おこ》つたやうな羞《はに》かんだやうな、何《なん》だか落付《おちつき》の惡《わる》い手持《てもち》のない顏《かほ》をして、却《かへつ》て自分《じぶん》をば凝然《ぢいつ》と見《み》もせぬ卯平《うへい》の目《め》から外《そ》れるやうに、餘所《よそ》を見《み》ては又《また》ちらと卯平《うへい》を見《み》つゝあつたが此《この》時《とき》おつぎの手許《てもと》へ嘴《くちばし》を容《い》れた。其《そ》の時《とき》醤油《しやうゆ》がごつと出《で》て菜漬《なづけ》が漂《たゞよ》ふばかりに成《な》つた。
「そうれ見《み》ろ」勘次《かんじ》はそつけなくいつた。おつぎが罎《びん》を再《ふたゝ》び柱《はしら》の傍《そば》へ置《お》くと、
「まだ其處《そこ》で引《ひ》つくるけえしちや大變《たえへん》だぞ、戸棚《とだな》へでも入《せ》えて置《お》け」勘次《かんじ》は復《ま》た注意《ちうい》した。卯平《うへい》は藥罐《やくわん》の湯《ゆ》を注《つ》いで三|杯《ばい》を喫《きつ》した。僅《わづか》に醤油《しやうゆ》の味《あぢ》のみが數年來《すうねんらい》の彼《かれ》の舌《した》に好味《かうみ》たるを失《うしな》はなかつたが、挽割麥《ひきわりむぎ》の勝《か》つた粗剛《こは》い飯《めし》は齒齦《はぐき》が到底《たうてい》それを咀嚼《そしやく》し能《あた》はぬのでこそつぱい儘《まゝ》に嚥《の》み下《くだ》した。おつぎが膳《ぜん》を引《ひ》かうとすると
「其《そ》の醤油《しやうゆ》は打棄《うつちや》らねえで大事《でえじ》にして置《お》け」勘次《かんじ》は小皿《こざら》の數滴《すうてき》を惜《をし》んだ。
「其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》こと云《ゆ》はねえつたつて打棄《うつちや》るもなあんめえな」おつぎは干渉《かんせふ》に過《す》ぎた勘次《かんじ》の注意《ちうい》が厭《いや》だと思《おも》ふよりも、偶《たま/\》逢《あ》つた卯平《うへい》の側《そば》でいはれるのが極《きま》りが惡《わる》いので喉《のど》の底《そこ》で呟《つぶや》いた。
「※[#「姉」の正字、「女+※[#第3水準1−85−57]のつくり」、246−11]《ねえ》今《いま》一|枚《めえ》くんねえか」與吉《よきち》は流《なが》し元《もと》に手《て》を動《うご》かして居《ゐ》るおつぎへ極《きは》めて小《ちひ》さな聲《こゑ》で請求《せいきう》した。
「汝《わ》りや、そつから佳味《うま》かねえなんていふもんぢやねえ、直《す》ぐ欲《ほ》しくなる癖《くせ》に」おつぎはこつそり叱《しか》つた。
「そうら汝《われ》げ買《か》つて來《き》たんだ、欲《ほ》しけりや幾《いく》らでも持《も》つてけ」卯平《うへい》は不器用《ぶきよう》ないひ方《かた》をしながら煎餅《せんべい》をとつて遣《や》つた。與吉《よきち》はそれでも窪《くぼ》んだ目《め》を蹙《しが》めて居《ゐ》る卯平《うへい》がまだこそつぱくて指《ゆび》の先《さき》で下唇《したくちびる》を口《くち》の中《なか》へ押《お》し込《こ》むやうにしながら額越《ひたひご》しに卯平《うへい》を見《み》た。
十七
次《つぎ》の朝《あさ》與吉《よきち》はまだ皆《みな》の膳《ぜん》の据《す》ゑられぬうちから學校《がくかう》へ行《ゆ》くとては騷《さわ》いだ。村落《むら》の生徒等《せいとら》は登校《とうかう》の早《はや》いことを教師《けうし》から只《たゞ》一|言《ごん》でも褒《ほ》められて見《み》たいので、慌《あわ》てなくても善《い》いのに汁《しる》も煮立《にた》たぬうちから強請《せが》むのである。與吉《よきち》は此《こ》れで毎朝《まいあさ》おつぎから五月蝿《うるさ》がられて
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