。
「爺《ぢい》げお茶《ちや》入《せ》えべえ」おつぎは立《た》つて茶碗《ちやわん》を洗《あら》つた。卯平《うへい》は濃霧《のうむ》に塞《ふさ》がれた森《もり》の中《なか》へ踏込《ふみこ》むやうな一|種《しゆ》の不安《ふあん》を感《かん》じつゝ來《き》たのであつたが、彼《かれ》はおつぎの仕打《しうち》に心《こゝろ》が晴々《せい/\》した。卯平《うへい》は、まだ菓子《くわし》を舐《しやぶ》りながら隱《かく》れるやうにして居《ゐ》る與吉《よきち》を見《み》て
「俺《お》れこと忘《わす》れたんべ此《こ》ら、大《え》かく成《な》つたと思《おも》つて來《き》たつけが本當《ほんたう》に分《わか》んねえ程《ほど》大《え》かく成《な》つたな」寡言《むくち》な卯平《うへい》が此《こ》の夜《よ》は種々《いろ/\》に饒舌《しやべ》つた。
「此《こ》んでも學校《がくかう》へ行《い》くんだもの」おつぎは茶《ちや》を入《い》れながらいつた。
「さうら」と卯平《うへい》は荷物《にもつ》へ縛《しば》りつけた煎餅《せんべい》の包《つゝみ》を與吉《よきち》へ投《な》げ出《だ》してやつた。
「おつう、手拭《てねげ》解《と》えて見《み》ねえか、野田《のだ》でも一|番《ばん》うめえんだから」卯平《うへい》はいつたがおつぎの手《て》が暇《ひま》どれるので自分《じぶん》で手拭《てぬぐひ》を解《と》いて勘次《かんじ》の前《まへ》へ出《だ》して、彼《かれ》は更《さら》に一|枚《まい》をとつて與吉《よきち》へ遣《や》つた。
「よき、それ貰《もら》あもんだ。爺《ぢい》呉《く》れるつちのに」おつぎは茶碗《ちやわん》を卯平《うへい》と勘次《かんじ》との前《まへ》へ据《す》ゑつゝいつた。
「こつちへ上《あが》つて貰《もら》あもんだ」勘次《かんじ》もいつた。土間《どま》に立《た》つて居《ゐ》た與吉《よきち》はそつと草履《ざうり》を脱《ぬ》いで危險相《あぶなさう》に手《て》を出《だ》して取《とつ》た。さうして直《す》ぐに偸《ぬす》むやうに噛《か》んだ。
「遠《とほ》くの方《はう》のがんだぞ、汝《われ》うまかんべ」おつぎは自分《じぶん》も一|枚《まい》を噛《かじ》り乍《なが》らいつた。
「うまかねえやそんなに」與吉《よきち》はおつぎの袂《たもと》へ隱《かく》れるやうにしていつた。甘味《あまみ》の強《つよ》い菓子《くわし》を噛《か》んだ口《くち》に、さうして醤油《しやうゆ》の味《あぢ》を區別《くべつ》するまで發達《はつたつ》した舌《した》を持《も》たない與吉《よきち》は卯平《うへい》が遠《とほ》く齎《もたら》したと聞《き》かせられた程《ほど》には感《かん》じなかつたのである。
「其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》こといふもんぢやねえ、そんだら※[#「姉」の正字、「女+※[#第3水準1−85−57]のつくり」、244−8]《ねえ》げよこしつちめえ」おつぎは小《ちひ》さな聲《こゑ》でいつて尻目《しりめ》に掛《か》けた。與吉《よきち》はさういひ乍《なが》ら手《て》にした丈《だけ》はぽり/\と噛《か》んだ。乾燥《かんさう》した響《ひゞき》が三|人《にん》の口《くち》に鳴《な》つた。
卯平《うへい》は幾杯《いくはい》も只《たゞ》茶《ちや》を啜《すゝ》つた。壯健《たつしや》だといつても彼《かれ》は齒《は》がげつそりと落《お》ちて軟《やはら》かな物《もの》でなければ噛《か》めなくなつて居《ゐ》た。卯平《うへい》は又《また》おつぎへ醤油《しやうゆ》の罎《びん》を出《だ》して
「俺《お》れ持《も》つて來《く》ればなんぼでも譯《わけ》ねえんだが荷物《にもつ》があるもんだから、此《こ》れつ切《きり》しか持《も》つちや來《き》ねえつちやつた、此《こ》んでも俺《お》ら藏《くら》ぢや此《この》上《うへ》はねえんだ、炊事《かしき》は汝《われ》すんだんべから、汝《われ》そつちへ藏《しま》つて置《お》けな」
「大變《たえへん》だつけな爺《ぢい》、荷物《にもつ》あんのになあ、此《こ》れだけぢや暫《しば》らくあんべよ」おつぎは罎《びん》を柱《はしら》の傍《そば》へ置《お》いた。
「荷物《にもつ》はさうでもねえが、身體《からだ》利《き》かねえでな、どうも」卯平《うへい》は煙管《きせる》を噛《か》んだ。
「爺《ぢい》はどうしたつぺ、お飯《まんま》たべたんべか」おつぎは敢《あへ》ていひ掛《か》けるといふ態度《たいど》でもなく勘次《かんじ》に向《むか》つていつた。
「おらどつちでもえゝや」卯平《うへい》は少《すこ》し遠慮《ゑんりよ》を交《まじ》へていつた。
「どつちでもえゝつて腹《はら》減《へ》つちやしやうあんめえな」おつぎは茶碗《ちやわん》と箸《はし》とを棚《たな》から卸《おろ》し
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