ら彼《かれ》は草鞋《わらぢ》をとつた。乾《かわ》いた道《みち》を歩《ある》いて來《き》たので幾《いく》らも汚《よご》れない足《あし》の底《そこ》を二三|度《ど》づゝ手《て》でこすつて座敷《ざしき》へ上《あが》つた。
勘次《かんじ》は南《みなみ》の風呂《ふろ》へ行《い》つて居《ゐ》た。彼《かれ》は晝《ひる》は寸暇《すんか》をも惜《をし》んで勞働《らうどう》をするので一つには其《そ》れが夜《よ》なべの仕事《しごと》を勵《はげ》み得《え》ない程《ほど》の疲勞《ひらう》を覺《おぼ》えしめて居《ゐ》るのでもあるが、少《すこ》し懷《ふところ》が窮屈《きうくつ》でなくなつてからは長《なが》い夜《よ》の休憇時間《きうけいじかん》には滅多《めつた》に繩《なは》を綯《な》ふこともなく風呂《ふろ》に行《い》つては能《よ》く噺《はなし》をしながら出殼《でがら》の茶《ちや》を啜《すゝ》つた。
其《その》夜《よ》與吉《よきち》は南《みなみ》の女房《にようばう》から薄荷《はくか》の入《はひ》つた駄菓子《だぐわし》を二つばかり貰《もら》つた。裏《うら》の垣根《かきね》から桑畑《くはばたけ》を越《こ》えて歩《ある》きながら與吉《よきち》は菓子《くわし》を舐《しやぶ》つた。
「どれ、俺《おれ》げもちつと出《だし》て見《み》ねえか」おつぎは與吉《よきち》の手《て》から少《すこ》し缺《か》いて自分《じぶん》の口《くち》へ入《い》れた。
「※[#「姉」の正字、「女+※[#第3水準1−85−57]のつくり」、241−12]《ねえ》は大《え》かくおつ缺《け》えちや厭《や》だぞう」與吉《よきち》は懸念《けねん》していふと
「おゝ薄荷《はくか》だこら、口《くち》ん中《なか》すう/\すら、おとつゝあげも遣《や》つて見《み》ろ」おつぎは又《ま》た菓子《くわし》へ手《て》を掛《か》けようとすると
「えゝから、よきげ嘗《な》めさせろ」勘次《かんじ》はおつぎを制《せい》した。三|人《にん》は他人《ひと》の目《め》が開《あ》いてない闇夜《やみよ》の小徑《こみち》を恁《か》うして自分《じぶん》の庭《には》へ戻《もど》つた。
「どうしたんだんべ、おとつゝあ」おつぎは戸《と》の隙間《すきま》から射《さ》す明《あか》りを見《み》て俄《にはか》に立《た》ち止《どま》つていつた。勘次《かんじ》は竦《すく》んだやうに成《な》つて默《だま》つた。おつぎは戸《と》の隙間《すきま》から覗《のぞ》いて
「爺《ぢい》見《み》てえだな、おとつゝあ」と小聲《こごゑ》で告《つ》げた。それから勘次《かんじ》も覗《のぞ》いて、鍵《かぎ》を外《はづ》して這入《はひ》つた。與吉《よきち》は見識《みし》らぬ爺《ぢい》さんが居《ゐ》るので羞《はに》かんでおつぎの後《うしろ》へ隱《かく》れた。
「爺《ぢい》だ」とおつぎは叫《さけ》んで卯平《うへい》の側《そば》へ寄《よ》つた。
「爺《ぢい》は今日《けふ》來《き》たのか」おつぎの挨拶《あいさつ》に續《つゞ》いて
「おとつゝあ遲《おそ》かつたな」勘次《かんじ》もいつた。
「出《で》だすのもそんなに早《はや》かなかつたつけが、暫《しばら》く歩《ある》きつけねえ所爲《せゐ》かなんぼにも足《あし》が出《で》ねえで、かういに遲《おそ》くなる積《つもり》もなかつたつけが」卯平《うへい》は重《おも》い口《くち》でいつた。
「餘《よ》つ程《ぽど》待《ま》つてゝか爺《ぢい》は」おつぎは麁朶《そだ》を折《を》り足《た》しながらいつた。
「火《ひい》吹《ふ》つたけたばかりよ」卯平《うへい》は其《そ》の窪《くぼ》んだ茶色《ちやいろ》の眼《め》を蹙《しか》めるるやうにして
「おつうも大《え》かくなつたな、途中《とちう》でなんぞ行逢《いきや》つちや分《わか》んねえな、そんだが汝《わ》りや有繋《まさか》俺《お》れこた忘《わす》れなかつたつけな」
「忘《わす》れめえな爺《ぢい》は」おつぎは卯平《うへい》に對《たい》してこそつぱい一|皮《かは》が間《あひだ》を隔《へだ》てゝ居《ゐ》るやうな感《かん》じがして居《ゐ》ながら、其《そ》の癖《くせ》の甘《あま》えた樣《やう》な舌《した》でいつてちう/\と鳴《な》り出《だ》した藥罐《やくわん》へ手《て》を掛《か》けた。卯平《うへい》はおつぎの挨拶《あいさつ》を今更《いまさら》の如《ごと》くしみ/″\と嬉《うれ》しく感《かん》じた。卯平《うへい》はお品《しな》が死《し》んで三|年目《ねんめ》の盆《ぼん》に來《き》た時《とき》不器用《ぶきよう》な容子《ようす》の彼《かれ》がどうして思《おも》ひついたかおつぎへ花簪《はなかんざし》を一つ買《か》つて來《き》た。十七のおつぎがどれ程《ほど》それを喜《よろこ》んだか知《し》れなかつた。おつぎは決《けつ》してそれを忘《わす》れなかつた
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