を勸《すゝ》めた。彼《かれ》は故郷《こきやう》へ幾年目《いくねんめ》かで行《ゆ》く序《ついで》もあるし、幸《さいは》ひ勘次《かんじ》のことは村落《むら》に居《ゐ》る内《うち》に知《し》つて居《ゐ》たから相談《さうだん》をして來《き》てやらうといつた。卯平《うへい》は近頃《ちかごろ》滅切《めつきり》窪《くぼ》んだ茶色《ちやいろ》の眼《め》を蹙《しか》めるやうにしながら微《かす》かな笑《ゑみ》を浮《うか》べた。
親方《おやかた》が勘次《かんじ》へ噺《はなし》をした時《とき》
「わしや、なあに、家《うち》のもんだから面倒《めんだう》見《み》ねえた云《ゆ》はねえね」勘次《かんじ》は油《あぶら》の乘《の》らぬ態度《たいど》でいつた。
「勘次《かんじ》さん近頃《ちかごろ》工合《ぐあひ》がえゝといふ噺《はなし》だが」親方《おやかた》も義理《ぎり》一|遍《ぺん》のやうにいふと
「工合《ぐあひ》えゝつちこともねえが、此《こ》んでも命懸《いのちが》けで働《はたれ》えてんだから、他人《ひと》のがにや大《え》けえ錢《ぜね》になるやうにも見《め》えべが、俺《お》らにこんで爺樣《ぢさま》が代《でえ》の借金《しやくきん》拔《ぬ》けねえで居《え》んだからそれせえなけりや泣《な》かねえでも畢《を》へんだよ、そんだがそれでばかり動《いご》き取《と》れねえな」
「そんぢや、其《そ》の時《とき》にや勘次《かんじ》さんも善《い》い理由《わけ》だね」
「そりやさうだが」勘次《かんじ》は何處《どこ》となく拍子《ひやうし》を變《か》へていつた。
「勘次《かんじ》さん等《ら》それでも※[#「穀」の「禾」に代えて「釆」、238−12]類《こくるゐ》はなか/\有《あ》る容子《ようす》だね」突込《つゝこ》んで聞《き》くと
「其《そ》の位《くれえ》なくつちや仕《し》やうねえもの、俺《お》ら此處《ここ》へ來《き》た當座《たうざ》にや病氣《びやうき》ん時《とき》でもからつき挽割麥《ひきわり》ばかしの飯《めし》なんぞおん出《だ》されて、俺《お》ら隨分《ずいぶん》辛《つれ》え目《め》に逢《あ》つたんだよ、こんでさうえこた、忘《わす》らんねえもんだかんな」勘次《かんじ》は到頭《たうとう》要領《えうりやう》を得《え》ない返辭《へんじ》をするのみであつた。
藏《くら》の親方《おやかた》は勘次《かんじ》がどういふ料簡《れうけん》であるといふことは卯平《うへい》へはいはなかつた。假令《たとひ》どうした處《ところ》で勘次《かんじ》の許《もと》へ歸《かへ》らねばならぬことに極《きま》つて居《ゐ》るのだから、それには戸板《といた》へ乘《の》せてやる樣《やう》な病氣《びやうき》の起《おこ》るまで奉公《ほうこう》させて置《お》くよりも、丈夫《ぢやうぶ》なうちに暇《ひま》を取《と》らせて還《かへ》して畢《しま》へば、或《あるひ》は勘次《かんじ》との間《あひだ》も思《おも》つた程《ほど》のこともないだらうと、程《ほど》よいことに卯平《うへい》へ噺《はな》した。卯平《うへい》は固《もと》より親方《おやかた》から家《うち》の容子《ようす》やおつぎの成人《せいじん》したことや、隣近所《となりきんじよ》のことも逐《ちく》一|聞《き》かされた。卯平《うへい》は窪《くぼ》んだ茶色《ちやいろ》の眼《め》に暖《あたゝ》かな光《ひかり》を湛《たた》へた。
卯平《うへい》は短《みじか》い時間《じかん》であつたが氣《き》がついてから心掛《こゝろが》けたので財布《さいふ》には幾《いく》らかの蓄《たくは》へもあつた。僅《わづか》な衣物《きもの》であるがそれでも煤《すゝ》けたやうに褪《さ》めた風呂敷《ふろしき》に大《おほ》きな包《つゝみ》が二つ出來《でき》た。一つの不用《ふよう》の分《ぶん》は運河《うんが》から鬼怒川《きぬがは》へ通《かよ》ふ高瀬船《たかせぶね》へ頼《たの》んで自分《じぶん》の村落《むら》の河岸《かし》へ揚《あ》げて貰《もら》ふことにして、彼《かれ》は煙草《たばこ》の一|服《ぷく》をも忘《わす》れない樣《やう》に身《み》につけた。彼《かれ》は股引《もゝひき》に草鞋《わらぢ》を穿《は》いて其《そ》の大風呂敷《おほぶろしき》を脊負《せお》つて立《た》つた。麥酒《ビール》の明罎《あきびん》二|本《ほん》へ一|杯《ぱい》の醤油《しやうゆ》を莎草繩《くゞなは》で括《くゝ》つて提《さ》げた。それから彼《かれ》は又《また》煎餅《せんべい》を一|袋《ふくろ》買《か》つた。醤油《しやうゆ》と米《こめ》とが善《よ》いので佳味《うま》い煎餅《せんべい》であつた。彼《かれ》は三つの時《とき》に別《わか》れて五つの秋《あき》に一寸《ちよつと》見《み》た與吉《よきち》がもう八つか九つに成《な》つて居《ゐ》ると恁《か》う數《かぞ》へて見《み》て土産《
前へ
次へ
全239ページ中132ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
長塚 節 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング