の白帆《しらほ》も暖《あたたか》く見《み》えて、大《おほ》きな藏々《くら/″\》の建物《たてもの》が空《むな》しく成《な》る程《ほど》一|切《さい》の傭人《やとひにん》が桃畑《もゝばたけ》に一|日《にち》の愉快《ゆくわい》を竭《つく》すやうになれば病氣《びやうき》もけそりと忘《わす》れるのが例《れい》であつた。
清潔好《きれいずき》な彼《かれ》は命令《めいれい》されるまでもなく、庭《には》にぽつちりでも草《くさ》が見《み》えれば※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《むし》らずには居《ゐ》られない。狹苦《せまくる》しいにしてもきちんとした傭人部屋《やとひにんべや》の周圍《しうゐ》の土《つち》に箒目《はうきめ》を入《い》れて水《みづ》でも打《う》つて見《み》たり、其處《そこ》らで作《つく》る朝顏《あさがほ》の苗《なへ》を貰《もら》つてどんな姿《なり》にも鉢《はち》へ植《うゑ》て見《み》たりして居《ゐ》ると奉公《ほうこう》が辛《つら》くも思《おも》はないのであつた。それも二三|年《ねん》の間《あひだ》で普通《ふつう》の人間《にんげん》ならばもう到底《たうてい》役《やく》にも立《た》たぬ年齡《ねんれい》に達《たつ》して居《ゐ》るので、假令《たとひ》彼《かれ》の境遇《きやうぐう》が安佚《あんいつ》を許《ゆる》さない爲《ため》に恁《か》うして精神的《せいしんてき》に健康《けんかう》が保《たも》たれて居《ゐ》るのだとしても、彼《かれ》の老躯《らうく》は日毎《ひごと》に空腹《くうふく》から來《く》る疲勞《ひらう》を醫《い》する爲《ため》に食料《しよくれう》を攝取《せつしゆ》する僅《わづか》な滿足《まんぞく》が其《そ》の度毎《たびごと》に目先《めさき》の知《し》れてる彼《かれ》を拉《らつ》して其《そ》の行《ゆ》く可《べ》き處《ところ》に導《みちび》いて居《ゐ》るのである。
復《ま》た冬《ふゆ》が來《き》た時《とき》、彼《かれ》は今《いま》までの腰《こし》の痛《いた》みと違《ちが》つた一|種《しゆ》の疾患《しつくわん》を生《しやう》じたやうに感《かん》じた。醫者《いしや》は依然《いぜん》僂痲質斯《レウマチス》なのだといつて、寒《さむ》い夜《よ》に火《ひ》の番《ばん》をして歩《ある》くのは絶對《ぜつたい》に惡《わる》いといふのであつた。それでも彼《かれ》は我慢《がまん》の出來《でき》るだけ務《つと》めた。出代《でがはり》の季節《きせつ》が來《き》た時《とき》彼《かれ》はまた頻《しき》りに惑《まど》うたが、どうも其處《そこ》を立《た》つて畢《しま》ふのが惜《を》しい心持《こゝろもち》もするし、逡巡《しりごみ》して復《ま》た居据《ゐすわ》りになつた。郷里《きやうり》から來《き》たものに聞《き》いて彼《かれ》は勘次《かんじ》が次第《しだい》に順境《じゆんきやう》に赴《おもむ》きつゝあることを知《し》つた。彼《かれ》は心《こゝろ》が復《ま》た動搖《どうえう》して脆《もろ》く成《な》つた心《こゝろ》が酷《ひど》く哀《あはれ》つぽく情《なさけ》なくなつた。然《しか》し長《なが》い間《あひだ》機嫌《きげん》を損《そこ》ね合《あ》うた勘次《かんじ》の許《もと》へ歸《かへ》るのには彼《かれ》は空手《からて》ではならぬといふことを深《ふか》く念《ねん》とした。彼《かれ》は夫《それ》からといふもの成《な》るべくコツプ酒《ざけ》も節制《せつせい》して懷《ふところ》を暖《あたゝ》めようとした。從來《じうらい》彼《かれ》が遠《とほ》く奉公《ほうこう》に出《で》て居《ゐ》て幾《いく》らでも慰藉《ゐしや》の途《みち》を發見《はつけん》して居《ゐ》たのは割合《わりあひ》に暖《あたゝ》かな懷《ふところ》を殆《ほと》んど費《つひや》しつゝあつたからである。それで彼《かれ》は今《いま》さう氣《き》がついて見《み》ても身體《からだ》の養生《やうじやう》をしなくてはならぬといふことが一|方《ぱう》に有《あ》るのでそれが思《おも》ふ程《ほど》にはいかなかつた。さういふ心配《しんぱい》が又《また》春《はる》も暖《あたゝ》かに成《な》つて病氣《びやうき》を忘《わす》れると歸《かへ》ることも其《そ》の儘《まゝ》に消滅《せうめつ》して畢《しま》ふのである。然《しか》しどう我慢《がまん》をして見《み》ても後《あと》幾年《いくねん》も勤《つと》まらないといふことを周圍《しうゐ》の人《ひと》も見《み》て居《ゐ》るのである。殊《こと》に永《なが》い間《あひだ》野田《のだ》へ身上《しんしやう》を持《も》つて近所《きんじよ》の藏《くら》の親方《おやかた》をして居《ゐ》るのが郷里《きやうり》の近《ちか》くから出《で》たので自然《しぜん》知合《しりあひ》であつたが、それが卯平《うへい》に引退《いんたい》
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