年目《ねんめ》の盆《ぼん》にふいと來《き》てふいと立《た》つたのである。卯平《うへい》は八十に近《ちか》く成《な》つて居《ゐ》ながら恐《おそ》ろしい岩疊《がんでふ》な身體《からだ》が髮《かみ》は白《しろ》く且《かつ》少《すくな》く成《な》つたが肌膚《はだ》には潤澤《じゆんたく》があつた。卯平《うへい》は夜《よる》は火《ひ》の番《ばん》をしても暑《あつ》い日《ひ》には庭《には》の草※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《くさむしり》をしたり、他《た》の藏々《くら/″\》への使《つか》ひに行《い》つたり、幾分《いくぶん》の忙《いそが》しさを感《かん》じても、使《つか》ひに行《ゆ》けば屹度《きつと》茶菓子《ちやぐわし》を包《つゝ》まれたり、手拭《てぬぐひ》を貰《もら》つたり、それから主人《しゆじん》からは給料《きふれう》以外《いぐわい》の賞與《しやうよ》があつたりするので少《すこ》し堅固《けんご》にすれば、懷《ふところ》には小錢《こぜに》を蓄《たくは》へて置《お》くことも出來《でき》るのであつたが彼《かれ》は能《よ》くコツプ酒《ざけ》を傾《かたむ》けたので彼《かれ》の懷《ふところ》は決《けつ》して餘裕《よゆう》を存《そん》しては居《ゐ》なかつた。野田《のだ》は郷里《きやうり》からは比較的《ひかくてき》近《ちか》いので醤油藏《しやうゆぐら》が段々《だん/\》發達《はつたつ》して行《ゆ》くに連《つ》れて傭《やと》はれて行《ゆ》く壯丁《わかもの》が殖《ふ》えて來《き》た。郷里《きやうり》では傭人《やとひにん》の給料《きふれう》が暴騰《ばうとう》して來《き》た程《ほど》どの村落《むら》からも壯丁《わかもの》が行《い》つた。其《そ》れが頻《しき》りに交代《かうたい》されるので、卯平《うへい》は一|度《ど》しか郷里《きやうり》の土《つち》を踏《ふ》まなくても種々《しゆ/″\》の變化《へんくわ》を耳《みゝ》にした。彼《かれ》は一|番《ばん》おつぎのことが念頭《ねんとう》に浮《うか》ぶ。十七の秋《あき》に見《み》たおつぎの姿《すがた》がお品《しな》に能《よ》くも似《に》て居《ゐ》たことを思《おも》ひ出《だ》しては、他人《ひと》の噂《うはさ》も聞《き》いて見《み》て時々《とき/″\》は逢《あ》つても見《み》たい心持《こゝろもち》がした。然《しか》しお品《しな》が死《し》んだ時《とき》野田《のだ》への立《た》ち際《ぎは》がよくなかつたことを彼自身《かれじしん》の心《こゝろ》にも悔《く》ゆる處《ところ》があつたので強《し》ひて厭《いや》な勘次《かんじ》へ挨拶《あいさつ》をして一時《いつとき》なりとも肩身《かたみ》を狹《せま》くせねばならないのを厭《いと》うて遂《つひ》憶劫《おくくふ》に成《な》るのであつた。年齡《とし》を積《つ》むに從《したが》つて短《みじか》く感《かん》ずる月日《つきひ》がさういふ間《あひだ》に循環《じゆんくわん》して、くすんで見《み》えることの多《おほ》い江戸川《えどがは》の水《みづ》を往復《わうふく》する通運丸《つううんまる》の牛《うし》が吼《ほ》えるやうな汽笛《きてき》も身《み》に沁《し》みて、冬《ふゆ》の寒《さむ》さが酷《ひど》くなると以前《いぜん》からの癖《くせ》で腰《こし》に疼痛《いたみ》を感《かん》ずることがあつた。藏《くら》の傭人《やとひにん》の爲《ため》に抱《かゝ》へてある醫者《いしや》に見《み》て貰《もら》つても、老病《らうびやう》だから藥《くすり》を飮《の》んで見《み》た處《ところ》で、さう效驗《きゝめ》が見《み》えるのではないがそれでも、飮《の》みたけりや飮《の》むが善《い》いといふのみで別段《べつだん》身《み》に沁《し》みていつてくれるのでもない。卯平《うへい》は幾《いく》ら飮《の》んでも自分《じぶん》の懷《ふところ》が痛《いた》まないのだからと思《おも》つて見《み》ても醫者《いしや》のいふ通《とほ》りどうもはき/\としないので晝間《ひるま》は成《な》るべく蒲團《ふとん》にくるまる樣《やう》にして居《ゐ》た。
 卯平《うへい》は年末《ねんまつ》の出代《でがはり》の季節《きせつ》になれば其《そ》の持病《ぢびやう》を苦《く》にして、奉公《ほうこう》もどうしたものかと悲觀《ひくわん》することもあるが、我慢《がまん》をすれば凌《しの》げるので遂《つひ》居据《ゐすわ》りに成《な》つて居《ゐ》るうちに何時《いつ》でも春《はる》の季節《きせつ》に還《かへ》つて、郊外《かうぐわい》に際涯《さいがい》もなく植《うゑ》られた桃《もゝ》の花《はな》が一|杯《ぱい》に赤《あか》くなると其《そ》の木陰《こかげ》の麥《むぎ》が青《あを》く地《ち》を掩《おほ》うて、江戸川《えどがは》の水《みづ》を溯《さかのぼ》る高瀬船《たかせぶね》
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