を反覆《くりかへ》しつゝまだ十|分《ぶん》の意味《いみ》を成《な》さないのに勘次《かんじ》は整然《ちやん》と坐《すわ》つた膝《ひざ》へ兩手《りやうて》を棒《ぼう》のやうに突《つ》いてぐつたりと頭《かしら》を俛《た》れた。おつぎもしをらしく俯向《うつむ》いた。島田《しまだ》に結《ゆ》うたおつぎの頭髮《かみ》が明《あ》かるいランプに光《ひか》つた。おつぎは特《とく》に勘次《かんじ》に許《ゆる》されて未明《みめい》に鬼怒川《きぬがは》の渡《わたし》を越《こ》えて朋輩同志《ほうばいどうし》と共《とも》に髮結《かみゆひ》の許《もと》へ行《い》つたのであつた。髷《まげ》には油《あぶら》が能《よ》く乘《の》つて居《ゐ》て上手《じやうず》掛《か》けた金房《きんぶさ》が少《すこ》しざらりとして動搖《ゆらめ》いた。巫女《くちよせ》が漸次《ぜんじ》に句《く》を逐《お》うて行《ゆ》くうちに
「姿《すがた》隱《かく》れて出《で》て見《み》れば、何《なに》知《し》るまいと思《おも》だろが、俺《お》れは其《そ》の身《み》の處《ところ》へは、日日《ひにち》毎日《まいにち》ついてるぞ、雨《あめ》は降《ふ》らねど箕《みの》に成《な》り、笠《かさ》に成《な》りてよ……」と巫女《くちよせ》の聲《こゑ》は前齒《まへば》の少《すこ》し缺《か》けたにも拘《かゝは》らず、一つには一|同《どう》がひつそりとして咳拂《せきばらひ》をもせぬ故《せい》であらうが極《きは》めて明瞭《めいれう》に聞《き》きとられた。
「一|度《ど》ならず、二|度《ど》三|度《ど》、不思議《ふしぎ》打《ぶ》たせて知《し》らせたに……」婆《ばあ》さんの聲《こゑ》が次《つい》で響《ひゞ》いた。勘次《かんじ》もおつぎも只《たゞ》凝然《ぢつ》として居《ゐ》るのみである。
「俺《お》れが達者《たつしや》で居《ゐ》るならば……」といふ句《く》が讀《よ》まれたと思《おも》ふと軈《やが》て
「呉《く》れるよ程《ほど》の心《こゝろ》なら、ほんに苦勞《くろ》でも大儀《たいぎ》でも、蕾《つぼみ》の花《はな》を散《ち》らさずに、どうか咲《さ》かせてくだされよう……」熟練《じゆくれん》した聲《こゑ》の調子《てうし》が、さうでなくても興味《きようみ》を持《も》つて居《ゐ》る一|同《どう》の耳《みゝ》にしみじみと響《ひゞ》いた。
「鴉《からす》の鳴《な》かない日《ひ》はあれど、草葉《くさば》の陰《かげ》で……」婆《ばあ》さんが自分《じぶん》の聲《こゑ》に乘《の》つて來《き》た時《とき》勘次《かんじ》はぼろ/\と涙《なみだ》を零《こぼ》した。おつぎもそつと涙《なみだ》を拭《ぬぐ》つた。
「ほんの假座《かりざ》のことなれば、此《こ》れにて俺《お》れは歸《かへ》るぞよう……」それから又《また》
「鴉《からす》の鳴《な》きがそでなくもう……」と反覆《くりかへ》しつゝ巫女《くちよせ》の婆《ばあ》さんの聲《こゑ》は輕《かる》く引《ひ》いてそつと拔《ぬ》いたやうに止《や》んだ。
「俺《お》れ濟《す》まねえ」勘次《かんじ》はぽつさりといつて又《また》涙《なみだ》を横《よこ》に拭《ぬぐ》つた。
「本當《ほんたう》に出《で》たんだよ、可怖《おつかね》えやうだな」其處《そこ》に居《ゐ》た若《わか》い女房《にようばう》はしみ/″\といつた。それから續《つゞ》いて他《た》の二三|人《にん》が身《み》の上《うへ》やら生口《いきぐち》やらを寄《よ》せた。さうして座敷《ざしき》の隅《すみ》に居《ゐ》た瞽女《ごぜ》が代《かは》つて三味線《さみせん》の袋《ふくろ》をすつと扱《こ》きおろした時《とき》巫女《くちよせ》は荷物《にもつ》の箱《はこ》を脊負《しよ》つて自分《じぶん》の泊《とま》つた宿《やど》へ歸《かへ》つて行《い》つた。
 三味線《さみせん》の撥《ばち》が一|度《ど》絃《いと》に觸《ふ》れるとしんみりとした座敷《ざしき》が急《きふ》に勢《いきほ》ひづいてランプの光《ひかり》が俄《にはか》に明《あか》るいやうに成《な》つた。勘次《かんじ》はそれを聞《き》くに堪《た》へないで、彼《かれ》は其《そ》の夜《よ》に限《かぎ》つて自分《じぶん》で與吉《よきち》の手《て》を曳《ひ》いて自分《じぶん》の家《うち》へと闇《やみ》の中《なか》へ身《み》を沒《ぼつ》した。若《わか》い衆《しゆう》は三|人《にん》の後姿《うしろすがた》を見《み》て
「蛬《きりぎりす》ぢやねえが、口《くち》鳴《な》らさねえぢや居《ゐ》らんねえな」といつた。
「そんだが、今夜《こんや》はしみ/″\泣《な》いたんぢやねえけ、あんでもお品《しな》さんこた何程《なんぼ》惜《を》しいか知《し》んねえのがだかんな」
「今《いま》だつて其《その》噺《はなし》すつと幾《いく》らでもしてんだかんな」
「そんだがよ、先刻《
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